愛を教えて
その日の午後、リッツ・ロンドンの『グリーンパーク・スイート』をひとりの男が訪れた。

本来なら、卓巳の仕事はすべて終わり、仲直りしたふたりはウェールズの湖畔でハネムーンを楽しんでいる予定だった。

それが、卓巳とも会えず、ライカーの影に怯え、万里子はホテルの部屋に閉じこもったままだ。日本語で書かれた旅行誌を見ながら、目の前のグリーンパークを卓巳と一緒に散歩する、そんな想像をして楽しんでいた。



『社長の命令で参りました』


苦虫を噛み潰したような顔で、ジェームズ・サエキは万里子の前に立っている。

彼はフジワラ・ロンドン本社の社長だ。父親が日本人のため、彼も同じように見えるが、よく見ると目も肌も髪も全体的に色が薄い。

万里子はジェームズの声を聞き、卓巳と初めて結ばれた朝にやって来た社員を思い出した。この間のように早口ではないが、彼に間違いない。

ジェームズとはレセプションで挨拶を交わしたのが最初だ。そのとき、万里子は避けられているように感じて、できる限り近づかないようにした。

そういえば卓巳から聞いたことがある。

ロンドン本社を任せている人間は、テムズ河の北側、イーストエンド出身。日系人だが日本を訪れたことはなく、日本嫌い。日系企業に勤めるのだから日本語くらいは覚えて欲しいものだが――そんな話を思い出す。


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