リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
自分は仕事が楽しかった。
決して、楽ではなかったけれど、楽しかった。
牧野がいたことも、もちろん、その要因だったと思う。
怒られて、怒鳴られて、楽しいことなんかなんもなくても、それでも頑張れたのは、隣に牧野がいたからだ。
逃げずに頑張っている限り、必ず、ぜったい、牧野は明子の味方でいてくれた。
頑張った明子に、すごいな、頑張ったなと、笑ってそう言ってくれる牧野は、頑張った自分だけが見られる、最高のご褒美だった。

せめて、その喜びだけでも幸恵に知って貰いたかった。
でも、幸恵はそんなものには興味はないと、そんなものに意味がないと、そう言うかのように背を向けてしまった。

木村がバスの中で零した言葉を思い出した。


‐原田とか見てると、判んないですよね。
‐こいつは、沼田さんが好きで結婚したいのか。
‐結婚したいから、身近なところにいた沼田さんを選んだのか。
‐どっちなんだろうって。


そもそもの出発点を自分は間違えていたことに、明子はその言葉で気が付いた。

幸恵の中にあるものは、沼田へに恋心でも愛情でもない。
結婚への憧れと焦りだ。
美咲が恋しているのは、現実の中の牧野ではない。
夢の中の理想の牧野だ。
それに気づけなかったから、自分と同じものを、彼女たちにも共有してもらいたいと明子は考えたのだ。
でも、そもそも根っこにあるものが違っていた。
どう足掻いても、明子の目論見通りになど、事が運ぶはずがなかった。
完敗だと、明子は思った。


(私の、負けだ)
(あの子たちは、変わらない)
(私には、変えられない)
(もしかしたらとか)
(明日になったらとか)
(そんなのは、甘い幻想だ)
(どれだけ、言葉を尽くしても)
(彼女たちには……)
(届かない)


また一つ、重苦しいため息が零れ、窓ガラスが一瞬曇った。


(君島さんも、こんな無力感を味わってきたのかな)


沈んだ気分そのままに、また湿った重い息が吐き出した。


車内アナウンスが、もうすぐ、明子が降りる駅に到着することを告げ始めた。

明子は、大きな深呼吸を、一つする。

誰だって。
こうありたいと。
こうなりたいと。
夢に見ている未来はある。
夢に見ている自分がいる。
美咲も幸恵も、こうありたいと思い願った未来を、こうなりたいと思い願った自分を、手に入れようと必死だったことは明子にも理解はできた。
そのやり方は、納得できないけれど、がむしゃらに必死だったことだけは判る。
けれど、その未来を、その自分を、手に入れるための努力の正しい積み重ね方を、彼女たちは最初から間違えていたのだろう。


(せめて、いつか……)
(彼女たちがそのことに、気づいてくれたらいいな)


甘いといわれるかもしれないけれど、明子は静かにそう願った。

電車が止まり、ドアが開く。



(仕事のことを考えるのは、もう、終わり)
(ここから先は、私の時間)


そう自分に言い聞かせた明子は、疲れていることを忘れようとするように、意識して軽い足取りで歩き出した。
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