高天原異聞 ~女神の言伝~
誰かが自分を呼んでいるような気がして、美咲は目を開けた。
そこは、暗闇だった。
一瞬、先ほどまでの夜の中かと思ったが、そこに月はない。
瞬く星々も見えない。
そして、気づく。
自分の身体がなかった。
大気に溶けるように、意識だけがそこにある。
眼下には、男神がいた。
その姿を捉え、愛しさに美咲の胸は震えた。
だが、その先にいる神を視界に捉え、その禍々しさに、震え上がった。
「そなたは誰だ」
気づいた男神が問う。
暗闇の中に、美しい白い顔が見える。
瞳は琥珀に煌めき、憂いを帯びた眼差しが男神を見据えている。
「我は黄泉を司る黄泉神。闇を統べる主なり――」
柔らかく微笑む闇の主に、男神は興味を引かれた。
「黄泉? それは何処に?」
「神々の領界、高天原が生まれて程なく、沸き出でる泉の滴るが如く密やかに闇の領界、黄泉国は生まれた。中つ国はその泉の溢れ、吹き上がった上澄みの中から、そなた達二柱の神によって創り固められたのだ」
「なんと、そのようなことが」
男神は驚いた。
自分達が創り出した豊葦原の奥底に、そのような国があったとは。
「暗く、寂しいところなのか、黄泉国は」
「確かに、寂しいと言われればそうやもしれぬ。黄泉神々は未だ少ない。我は独り神であるゆえ、國産みは思うようにいかぬのだ。そこで――」
美しい琥珀の瞳が真っ直ぐに男神を見据える。
「もしも、女神が神去《かむさ》れば、その時は我が妻に貰い受けたい」
闇の主の申し出に、男神はさらに驚いた。
「女神が神去る? そのようなことは有り得ぬ」
男神は否定する。
愛しい女神が神去ることなど有り得ない。
自分達は永久に、この世界を産み出し、ともに生きていくのだ。
「確かに。女神はそなたの半神。それは何が起ころうとも変わらぬ。神去るはずもない」
男神の言霊を、闇の主は受け入れる。
だが、女神は死に近いところにいる。
黄泉国は死の国。
黄泉を司るこの身には、よくわかる。
死の穢れが、女神にまとわりついているのが。
「有り得ぬのであれば、構わぬであろう。一言口にすればよいだけだ。有り得ぬ事を口にしたとて、それは戯れのようなものだ」
美しい笑みに、男神は戸惑う。
やめて。
頷かないで。
美咲は声にならぬ声で必死に叫んだ。
だが、男神は気づかない。
黄泉神の言霊に、訝しいものを感じながらも、躊躇いつつ、言霊を口にする。
是と。
黄泉神の美しい唇が、仄暗い笑みを浮かべた。
言霊が確かに交わされた。
「誓約《うけい》は成された。女神が神去れば、黄泉国でお迎えしよう。黄泉を治める死の女神と成り、我が妻として黄泉の國産みが始まるのだ――」