高天原異聞 ~女神の言伝~
己貴は木の国を離れ、根の堅州国へ向かった。
現世と幽世を繋ぐ地の門を越えると、そこは暗闇の領界となる。
死出の旅路を往くかのように、その身一つで己貴は進んだ。
闇にも浮かぶ黄泉比良坂の長い道のりの途中にあるという根の堅州国。
不意に分かれ道を見つけ、自然とこちらが根の堅州国へ通じる道だと思った。
分かれ道の方に足を踏み出そうとして、もう一つの長く続く方に神気を感じ取る。
「――」
向ける視線の先には闇に溶け込むように佇む姿が。
「もしや、須佐之男様でございますか――?」
だが、問うてすぐに間違いに気づいた。
三貴神がこのような闇に染まった神気を持つはずがない。
その気配は、かつて自分と兄を引き離した黄泉神――
「闇の主……」
闇の中でも冴え渡る美貌の主は、美しい容に憐れみの色を浮かべ、己貴を見ている。
「哀れな大己貴、何故すぐに、ここへ来なかった」
「え……?」
「稲羽へなど、往こうと思わねば、すぐにここへ来ていれば、このようなことにはならなかったのに」
「何を言うのだ……」
戸惑う己貴の横合いからかかるもう一つの声。
「否――例え、誰よりも早くここへ来ていたとしても、大己貴の定めは変わらん。それは天命。全ては、天命に従い動く」
根の堅州国への分かれ道の先に立っているのは、気高くも猛々しい神気を持つ荒ぶる神。
闇に在って、その神気は一層鮮烈に揺らめき、神々しいばかり。
「闇の主、何も知らぬ大己貴を惑わせるな」
荒ぶる神の厳しい声音に、闇の主は気にした風もなく肩を竦めた。
「大己貴、天命に逆らいたくなったのなら、私を思い出せ。天命に抗う力を授けよう」
不意に、闇の主の気配が消える。
闇の主の言霊に、己貴は動揺して、荒ぶる神を見据える。
興味を失ったかのように、荒ぶる神は己貴に背を向け、歩み去ろうとしていた。
「お待ちください。私が稲羽ではなく、根の堅州国に真っ直ぐに来ていれば、兄は神去らずにすんだのですか?」
荒ぶる神――建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》は、肩越しに振り返る。
「惑わされるな。闇の主は言霊を使って我ら神を惑わせる。もしもとお前は問うが、それを知って何になる。時を戻して、お前の兄が神去るのを止められるとでも? 時を司る天津神、天之斑駒でさえ、時を戻すことは出来ぬのだ。諦めて受け入れろ」
それだけを告げると、荒ぶる神は踵を返し、足早に分かれ道の向こうへと歩き去った。
暫し呆然とそれを見送り、慌てて後を追う。
一本道なのに、すでに荒ぶる神の姿はない。
駆けに駆け、己貴はとうとう開けた場所へとたどり着いた。
そして、月神の慈悲か、暗闇でも青々と茂る草原を前に立ち竦んだ。
「……ああ……」
訳もなく、郷愁にも似た感情が押し寄せる。
天に浮かぶ冴えた月。
風にそよぐ青草。
その先には、美しい館がひっそりと佇んでいる。
一度も訪れたことのない場所を前に、何故このような気持ちになるのか、己貴にはわからなかった。
黄泉返る前でさえ、豊葦原の何処を訪れようともこのように思ったことはない。
ここだ。
還りたかった場所。
留まりたい場所。
この、根の堅州国。
死に近き国だ。
涙が零れそうになる。
須佐之男命《すさのおのみこと》にもう一度会わねば。
そして、この国で暮らそう。
豊葦原などどうでもいい。
兄の八十神達も。
ようやく辿り着いたこの場所で、兄に出会える日まで生きてゆこう。
己貴は逸る気持ちを静めるように、駆け出したいのを堪えて、草原の先の館へ向かった。