高天原異聞 ~女神の言伝~

 次々と国津神の娘神を娶った己貴は、禁厭を深めていった。
 永く苦しい年月であった。
 呪を施し、須勢理比売をこの豊葦原に留め続けるために、己貴は己の神気も神威も使い果たそうとしている。
 己貴の裏切りとも見える妻覓《つまま》ぎによって、須勢理比売と己貴の絆は不信に絡み取られ失われようとしていた。
 それでも、己貴は未だ須勢理比売を愛していた。
 愛しげに自分を見つめた眼差しが氷のように冷ややかになっても。
 どんなに乞い願っても褥に迎え入れてもらえずとも。
 己貴には、常に須勢理比売だけが愛しかった。
 独り寝ている比売の寝所に忍んで往き、誰にも気取られぬように、須勢理比売自身にさえ気づかれぬように深い眠りに落としたまま、愛しい妻と夜明け近くまで交合う。
 ずっと傍にいて抱きしめていたかったが、新たな呪の名残を消し去るために須勢理比売の部屋を出て、白みはじめた空の下、海へと歩く。
 禁厭のせいで身体は重く、疲れ果てていた。

「己貴」

 耳元に声がして、気がつけば左肩に小さき神が座っていた。
 禁厭で疲れていた身体も、この小さき神が傍にいてくれると癒される。
 須勢理比売同様、今はこの小さき神も己貴にとっては許しと癒しを与えてくれる存在だった。

「須久那……この呪は、私が神去っても続くか?」

「無理だ。そなたが死ねば、呪は保たぬ。豊葦原に留まるのなら、いずれ呪は消え、女神は神去る」

「堅州国に在れば、生きられるか?」

「堅州国ならば、女神は死なぬ。禁厭も残り、そなたが黄泉返れば、いつの日か再び、豊葦原に戻ることもできるやも知れぬ」

 諦めたように、己貴は微笑った。

「では、私に出来ることは一つだけだな」

 命を使い果たしても、出来ぬことがある。
 愛しい女の願いを、叶えてやることが出来ぬ。
 こんなにも愛しているのに。
 己貴は己の無力さを悔やんだ。

「須久那……私は何を間違えたのだろう……?」

「間違えたのではない。正しい道など、何処にもないのだ。全ては己の選んだ道だ――」

 小さき神の言霊に、己貴は咲う。
 そうだ。
 自分で選んだのだ。
 誰の、何のせいでもない。
 己が選んでそうしたことを、何故悔やむ?
 例え、時を取り戻せて、同じ岐路に立とうとも、自分はこれしか選べない。
 愛しい女神のために、これより他には選べない。
 それが、己が選んだことだ。

「……そうだな。私が、私のためにしたことだ。私だけは悔やんではならぬな。
 須久那、そなたはいつも私を救ってくれる。真に有難く得難き神だ」

 ふわりと、肩に乗っていた須久那毘古那が己貴の前に浮かび上がる。
 己貴はいつものように両手を掲げ、小さき神を受け止める。

「だが、我の役目はここまで。これより後は、留まれぬ」

 静かな別れの言霊に、己貴は息を呑む。

「――禁厭のせいか?」

 小さき神は曖昧に咲った。

「そなたを導くのが我の役目であった。心残りもあるが、すべきことは全て果たした。戻らねばならぬ」

「常世へ――?」

「わからぬ。そうやもしれぬ。我はそなたと出会う前のことはほとんど覚えておらぬのだ」

 常世とは、黄泉国のことだ。
 死者の往く国。
 この小さき神の正体を、すでに己貴は気づいていた――否、初めて出会った時から、わかっていたのだ。

「兄上であろう? 誰が気づかずとも、私にはわかる」

 今度は、小さき神が息を呑む。

「たくさんのことを忘れてしまった。私はそなたの兄であったのか?」

「そうだ。私の兄上だ。本当の名は大穴持命《おおなもちのみこと》。妻は八上比売命《やがみひめのみこと》。子は御井命《みいのみこと》」

 自分の名と妻である八上比売の名を言霊にのせると、小さき神はほうと、満足げに息をついた。

「我は、そなたの兄であったのか。ならば、この愛しさもわかる。己貴よ、我はそなたと共に在れて幸せであった――」

「兄上――兄上……」

「悔いなど何もない。黄泉返るその日まで。また会おうぞ、己貴」

 小さき神の小さな姿は、空に溶けるように消えていった。
 神気の名残がわずかに煌めき、海の彼方へ軌跡を描いて往く。

「ええ、兄上。許してください。このように兄上を利用する私を」

 己貴の神気が揺らめき、神威が満ちた。

「闇の主よ、今こそ願う。黄泉路へ降る兄上を再び豊葦原へ。神去りし後の、我の御霊をそなたに捧げる。黄泉神となり、冥界の使者となろう」



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