高天原異聞 ~女神の言伝~

 一方、須勢理比売も焦りを感じていた。
 闇の主が動く気配がない。

 木之花知流比売《このはなちるひめ》は何を手間取っている?
 まさか、この期に及んで逃げたのか?

 世界を揺るがす神威は、何故か使えば使うほど、須勢理比売に苦痛を与える。
 この苦痛は何だ。
 この世界の理が自分を拒んでいるのか。
 そんなはずはない。

 ――これは警告なのだ。

 世界を壊すほどに抗うことを、理が拒んでいる。
 そのように永遠に自分を縛りつけるこの国が、世界が、厭わしくてたまらなかった。

 いっそ壊れるがいい、何もかも。

「母上様、それ以上神威を使ってはなりませぬ!! 死んでしまいます!!」

 事代主の悲痛な叫びにも、歪んだ笑みしか返せない。

「死んでも構わぬ。滅びるがいい、何もかも。この国に繋がるものは残らず我が消し去ってやる!! 事代、建御名方を連れて往け。豊葦原へ戻れ!!」

「母上!?」

「須勢理、無駄だ。世界を壊しても、そなたは豊葦原には還れぬ」

 憐れむような建速の声音。
 憐れみなど、欲しくはない。

「いいや!! 還ってみせる!! 喩え神霊のみになっても、禍《まが》つ御霊《みたま》となっても、豊葦原に還る!!」

 身体中を、苦痛が襲う。
 それでも、神威を使い続ける須勢理比売に、建速はそれ以上何もできない。
 その時。

「奏上《そうじょう》致す!!」

 ふわりと虚空に浮かび上がったのは、巫女神である天之宇受売命《あめのうずめのみこと》。

「我は天津神にして天孫の日嗣の御子の随伴神、天之宇受売なり。神代にて行われた國譲りに習い、再び大国主の末に挑む!! 返答や如何に!!」

「随伴神だと!?」

 建御名方が前に出る。

「卑怯な手で我を捕らえ、國譲りを誓わせた天津神が、今更何を申すか!?」

 天之宇受売が艶やかに咲う。

「確かに、あれは思兼《おもいかね》の策。我は策を労すことはせぬ。今度は、我独りがお相手仕る。兄弟神で挑まれるがいい。我らの勝負で、豊葦原の支配権を決めましょうぞ。言霊に誓いまする」

「よかろう!! 言霊に誓う!! 我らが勝てば、豊葦原は大国主の末のものだ!!」

「建御名方!?」

 建速と須勢理比売の神威が、誓約《うけい》によって霧散する。
 神鳴りが止み、俄に静寂が戻る。

「母上、誓約は成されたのです。ここは、私と事代主にお任せください」

「ならぬ!!」

 建御名方が、母神の手を取る。

「もとより豊葦原を奪われたのは、私の至らなさ故。どうか、私に再び豊葦原を取り戻す機会をお与えください。でなければ、どうして豊葦原に戻れましょう。
 御案じ召さるな。かつて父上様がこの生大刀と生弓矢で豊葦原を平定したように、私と事代主が豊葦原を取り戻して見せます。母上にも祖神様にも手出し無用。これは、天津神と国津神の勝負故に」

「よかろう。俺も須勢理も手を出さぬ」

「父上様!!」

「須勢理、誓約は成された。我ら神々は言霊に縛られる。抗うことなどできぬ。宇受売、独りで構わんのだな」

「もとより、國譲りは私が天照様に命じられしこと――初めから、私の成すべきことでございました。手出しご無用。神代で成すべきであったことを今日終わらせねばなりませぬ」

 建御名方が生大刀を、事代主が生弓矢を構え、宇受売に対峙する。
 虚空に浮かぶ、三柱の神。
 神気が溢れんばかりに輝きを放つ。

「建御雷《たけみかづち》がおらぬからとて、油断されるな」

 交差させた宇受売の手の平に美しい二振りの剣が顕れる。
 事代主が矢を放つ。
 それが、始まりの合図だった。




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