高天原異聞 ~女神の言伝~
「――我らが主がお話ししたきことがございます故、暫しお待ちを」
闇山津見が目を閉じる。
途端に、憑坐を包む気配が変わった。
建御名方が憑坐としていた人間には、すでに闇山津見《くらやまつみ》でなく、別の神が降りていた。
神気が違う。
それは、もっと永い時を経たように老成した、穏やかな神気であった。
そして、強い神威を併せ持っていた。
目を開けた新たな神は、まず建速を見据えた。
「最後の貴神《うずみこ》にお願いしたく、やって参りました」
「禍つ御霊となった姉比売のことか」
「――さようにございます。あれは我が娘、木之花知流比売にございます」
「されば、そなたは国津神、大山津見命だ。豊葦原での我が妻櫛名田の祖神でも在る女神の末。我が兄でも在らせられる」
「三柱の貴神《うずみこ》の兄とは畏れ多い。我は豊葦原の国津神に過ぎず」
大山津見命は、一礼すると建速の背後の美咲を見据えた。
「母上様、お懐かしゅうございます」
不意に話しかけられ、美咲は戸惑う。
ただ、胸の奥が懐かしさと愛おしさでざわめく。
「あ、あの――ごめんなさい。私記憶がないんです」
「存じております。父上様もでございますね。それでも、私には、わかります。貴女様は紛れもなく、我ら国津神の祖神で在らせられる」
その温かな声音を、その纏う雰囲気を何処かで感じたことがあった。
「もしかして、斉藤さん、ですか……?」
「さようにございます。我は現世でも木之花知流比売の親となる人間に降りました。哀れな娘に寄り添い、ともに目覚め、生きて往くために。故に、兄弟達とともにお護りすることはできず、密かに母上様の近くで過ごすことしかできませなんだ」
封じられた神々が目覚めて、現世に生きるためには人間の憑坐を必要とする。
禍つ霊となった娘のために、女神の末である大山津見命《おおやまつみのみこと》は、今の今まで、祖神のもとへ戻れなかった。
「可哀想な娘なのです。己の半神であった妹比売を失い、悪しき言霊に縛られ、禍つ霊と成り果てました。それでも、我ら山津見の国津神の幸わいであったのです。あれがいなければ、我らはとうの昔に豊葦原から消え果てておりました」
彼女の憎しみが、怒りが、哀しみが、山津見の神々を最後まで豊葦原に留めた。
その哀れさ故に。
「どうか、我が末に御慈悲を。本来、禍つ霊となるべき定めではございませんでした。哀しみがあれの心を惑わせてしまったのです」
「どのみち、追って往かねばならん。神霊を取り戻さねば、いずれこの肉体は死ぬだろう。現身《うつしみ》が死ねば、伊邪那岐は神去る」
「ならば、道返之大神《ちがえしのおおかみ》を喚び出しませ。かの神ならば、この千引の岩から先の黄泉国へ、導くこともできましょう。かつて、父上様がそうなさったように」
大山津見命が跪く。
「この憑坐には、我の代わりに闇山津見が憑きます。どうか、お供させてくださいませ」
大山津見命が目を閉じると、再び神気が変わる。
憑坐の中に、再び闇山津見が戻ってきていた。
「祖神様の神霊を取り戻すべく、お供させて頂きます。そして、何卒、我が比売様を闇の主よりお救いください」
「よかろう。これ以上闇の主の好きにはさせん。姉比売も伊邪那岐も死神ではない以上、黄泉国に入ることはできぬはず。我らが辿り着ける場所に、きっといる」