真実の永眠
30話 朗報
 十一月。
 秋も深まり、日中も寒さに凍える事が多くなった。
 秋、というより、街の景色も風の匂いも、ピリッと肌を刺すような冷気も、まるで冬のようだった。






「お疲れー」
「お疲れ様でした」
 十七時半を回り、バイトが終わった。
 帰り支度を整えた私は、上がりの挨拶を交わすと、店の裏口へと向かった。肩に掛けていたバッグの取っ手を掛け直し、扉を開いて外に出る。
「ゎ、寒い……」
 外は既に暗くなっており、気温もぐっと下がっていた為、思わずそんな言葉を発してしまった。
 今からこの寒さの中を歩いて帰らなければならないのかと思うと、溜息をつかずにはいられない。
 しかし、少しの吐息も白くなるのを見ると、自分の大好きな冬が来たのだと思えて、途端に嬉しくなった。何度かわざと大きく息を吐き、白くなるそれを見て微笑むと、家までの道のりを急いだ。
 家までの距離は、時間にすると約二十五分くらいだろうか。
 半分程歩いた所で、突然携帯電話が鳴った。
「!」
 私は、携帯電話を早く取り出さなければと、ポケットを探ったりバッグを探ったりと必死だった。
 無駄に長い着信音は、電話の知らせ。
 バッグの底から漸く取り出した携帯電話には、“麻衣ちゃん”と表示されている。
「……もしもし?」
 出るまでに時間が掛かってしまったが、相手がしつこく、……いや根気良く掛けてくれたお陰で、何とか切れてしまう前に出る事が出来た。
『あ、もしもし? 雪音ちゃん?』
「うん。……何かあった?」
 声のトーンが心なしか明るく感じたから、何かいい事でもあったのかと思い聞いてみた。
『桜井さんとはどう? 実は最近、桜井さんについていい情報をゲットしたんだ、だから早く雪音ちゃんに教えたくて♪』
「いい情報……?」
 その言葉を聞いた途端、ドキリとして思わず足を止めてしまった。
『うん。まずね……、』
 ――まず? 幾つかあるって事……?
 私は期待と緊張で高鳴る鼓動をどこか遠くに聞きながら、麻衣ちゃんが次に紡ぐ言葉を静かに待った。
『これはもしかしたら知ってるかも。桜井さん、K短合格したんだって!』
「えっ、本当?」
『あ、知らなかった? ほんとほんと』
「知らなかった……わぁ、優人受かったんだぁ」
『そうみたいだよ。良かったね。桜井さんって、一度落ちてたんでしょ?』
「あ……、うん」
 そうなのだ。優人はK短の受験を、一度失敗している。いつだったか詳しい日程は分からないが、AO入試は不合格となっていて、次の入試でも合格出来る可能性は低いと言われていたらしい。
 それでも優人は、K短の保育科を諦め切れなかったそうで、「もしもの場合は他の科で取って貰えるかも知れないから、希望として出しておけ」との先生の言葉も無視し、保育科一本で受験をしたのだそうだ。
 ――保育科以外行く気はないから受験しない。
 優人は先生にそう言ったのだと、麻衣ちゃんの彼から聞いた(正しくは、麻衣ちゃんを通して聞いたのだけれど)。
 それが真実かどうかは別として、聞いた時は嬉しくて喜んだのを憶えている。それ程まで夢に一生懸命なのだと知れたから。
 止めていた足を、再び踏み出し歩き出した。
「でも、合格して本当に良かった。受験の事とか合否の事とかずっと気になってて。……良かった……」
 冷たい空気の中、笑顔と安堵の白い息が零れた。
 嬉しいと感じて笑ったのは、どれくらい振りだろうか、なんて頭の隅で考えて。
『それにさ、うちらの住むK市に、一人暮らしするんだって』
「そ、そうなの……? K市に……優人が?」
 初めて知る素敵な情報。
 あまりの嬉しさに、身体も声も震えそうになる。
『そうだよ。うちの彼氏と桜井さんで、将来の事ちゃんと話したらしいから、全部本当の事』
 電話越しに柔らかく笑った気配を感じて、私は嬉しくなった。
 一歩ずつ踏み出す足が、心なしか軽くなったように感じる。それどころか、ふわふわとする感覚になって、きちんと地面を歩いているのかどうかさえ分からなくなる。
「嬉しいな……今まで離れてた分、凄く嬉しい。会えるかどうかはまた別なんだけどね」
 言いながら苦笑し、空を見上げた。
 空気が澄んで、星が綺麗に見える。北に向かって歩いているから、北極星を中心に、北斗七星やカシオペヤ座がはっきりと見えた。右を向けばオリオン座が顔を出しているのが見える。
 吸い込まれそうな星空の下、私は笑った。
『でも、何か凄くいい方向に向かってる気がしない? うちの彼氏もK短目指しててさ、まぁ何とか合格して。でも彼氏は今まで通り実家から通うってさ』
 そう言って呆れたように麻衣ちゃんは笑った。
 麻衣ちゃんの彼は、市内に住んでいる。
「ふふ、そうなんだ。じゃあこれからも遠距離……あ、中距離恋愛のまま?」
『そうなのー。彼氏もさ、こっちで暮らしてくれればいいのに』
 わざとらしく溜息をつく麻衣ちゃんがおかしくなって、私も笑った。





 あっという間に家へと到着した。
 玄関扉を開けて部屋に入ると、「お帰りー」と、キッチンから顔を出した母と目が合った。
「あ、ごめん」
 携帯電話を耳に当てて誰かと話している私を見て、母は慌てた様子で小さく謝罪した。小さく頷いて笑い返すと、そのまま母には何も言わず自室へと入った。
 バッグを下ろして上着を脱いで、ベッドに腰掛けた。
『――あ、そうだそうだ。他にも桜井さん情報!』
「え、何?」
 麻衣ちゃんが思い出したようにそう口にしたものだから、食い付くように聞き返した。
『桜井さんの好きなタイプ♪ 桜井さんって、髪が長くておしとやかなお嬢様タイプが好きらしいよ♪』
「……それも彼から聞いたの?」
『うん。彼氏に聞いたっていうか、彼氏がさ、うちの目の前で桜井さんに電話してくれて。電話が終わった後彼氏からも聞かされたけど、電話の話し声も少しだけ聞こえて来たから』
「……そうなんだ」
『うん。そういえば夏にさ、うちら祭で会ったじゃん? その時雪音ちゃんとうちの彼氏、会ったの初めてだったよね?』
「ああ、うん」
『彼氏が雪音ちゃんを見た後、「可愛い子じゃん! 優人がなかなか付き合おうとしないから、雪音ちゃんって不細工な子かと思ってた」って言ってたよ』
「ふふ、そうなんだ。嬉しい。でもそれ夏の事だから、結構前の話だよね」
『ごめん、今思い出した』
「あはは」
 私が麻衣ちゃんの彼と初めて会ったのは、今年の夏に行われた祭の時だ。麻衣ちゃんは彼と、私は別の友達と祭に行った。
 花火も終わり帰ろうとしていると、こちらの姿を見付けた麻衣ちゃんが、声を掛けてくれたのだ。
 麻衣ちゃんとは少し雑談をしたが、麻衣ちゃんの彼とはぺこりと挨拶を交わしただけで、一言も言葉を交わす事はなかった。
『――それでさ、その桜井さんのタイプを聞いた後に、「雪音ちゃんって子、優人のタイプじゃね?」って彼氏が言ってたよ』
「えっ、ほ、ほんと?」
『ほんとほんと。うちも雪音ちゃんの事言ってるのかと思ったもん』
「い、いやいや、嘘……っ!」
『ほんとにほんと。』
「……それはないよ。だって……」
 私は目を伏せた。
 そしてテーブルの上に置いてある鏡に、自分の姿を映した。
 確かに髪は長いから、それはまぁ……合格かも知れない。けれども、おしとやかでお嬢様のような雰囲気が、自分にあるとは思えなかった。よしんばあったとしても、優人が自分をタイプと思ってくれているなんて有り得ないと思った。
 ……タイプなんだとしても、「好き」だなんて事は、確実にないと思った。
 タイプ=好きとは違う。
 ぼんやりと鏡の中を見つめた後、小さく溜息をついた。
 そう、「好き」だなんて事、悲しいけれど確実にない事を自分は知っている。優人と接する中で、嫌でも分かってしまうのだ。
 未だに続く、冷たく素っ気ないメール。それに何より、振られている身だ。
 何もかもが……、
『……うまく行ってないから?』
「……」
 自分の考えていた事、言おうとしていた事を言われて、ハッとした。
『……』
「……うん」
 時計の針が進む、カチッ、カチッという音が無音の部屋に響いて。
 暫くの沈黙の後、私は小さく肯定の言葉を呟いた。
 大きく溜息をつきたい気分だった。
『……連絡は? ちゃんと取ってる?』
「うん……最後にメールをしたのが二週間程前、かな」
 冷たいメールを見るのが辛くて、今は昔のようにメールを送れなくなった。
 しかし、連絡を取らない事によって、自分のアドレスを消されてしまうのが怖くて、忘れられてしまうのが怖くて、暫く間隔を空けてたまにメールは送るようにしていた。
『あ、じゃあ何ヶ月も連絡取り合ってない事はないんだね。安心した。……でも今回、雪音ちゃんにとって凄くいい情報だったと思うのね。うちからすれば、脈あり!? って思うくらい』
「……うん」
『今までの素っ気ないメールも、きっと進路の事で悩んでたからだよ。でももう合格も決まって、進路の事で悩まなくて済むようになったんだから、きっとこれからはまた普通に話せるよ。近い内にメールしてみたら?』
「……ありがとう。そうしてみる」
『うん、そうしてみなよ。確かにこれまでは色々と辛かったかも知れないけど、少なくとも今日だけは、素直に喜んでもいいと思うよ』
「うん、ありがとう……」
 確かにこれまでの出来事を思うと、今日の事は本当に嬉しい。幸せだなんて大袈裟に思ってしまう程に嬉しいと感じられた。
 だから麻衣ちゃんの言葉も素直に受け取って、嬉しい時には思い切り笑おうと思えた。





 電話を終えて、私は今日の出来事を日記帳に綴っていた。日記を付ける事が、中学生の頃から日課となっている。
 嬉しい出来事を書く時は、決まって顔が綻ぶ。
 嬉しくて嬉しくて、嬉しくて。
 優人の事で嬉しい出来事なんて、この先もうないと思っていた。
「お姉ちゃーん、ご飯出来たよー」
 コンコンと短いノックの後に、夕海が部屋の扉を開けて顔を出し、私を呼んだ。
 きっと、「そろそろご飯出来るからお姉ちゃん呼んで来て」とでも母に頼まれたのだろう。
「うん、すぐに行く」
 簡単に返事を返すと、夕海は「分かったー」と言いながらすぐにキッチンの方へ向かってしまった。
 次はいつ、優人にメールを送ろう。
 いつ、「合格おめでとう」って言おう。
 実を言うと、不合格の知らせを聞いた時は、ほんの少しだけ不安になってしまった。けれど、やっぱり信じようと思った。優人なら、絶対に合格する、って思いたかった。優人の良さを沢山知っているから、きっとどこかでその人柄や努力は、報われるんだって。
 私が知らない優人がいるように、私だけが知っている優人もいる。
 保育士という夢にまた近付く事が出来た。それが自分の事のように嬉しい。
「さて、ご飯行こうかな」
 ペンを置いて、日記帳をパタンと閉じた。
 まだまだ書き足りない今日の素敵な出来事は、夕飯を済ませてからゆっくり書こうと決めた。
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