時は今



 階段を駆け降りる。

 言い様のない激情が身体中を駆け巡っていた。

(綾川由貴が好きだった?)

 あり得なかった。

 あんな、人のことを全否定するような男。

 そういう高遠雛子の方も由貴のことを全否定しているわけだが、そんなことはどうでもいいのが高遠雛子である。

 と──階段を登ってくる綾川由貴に遭遇する。

 お互いにいい顔はしない。だが、そのあたりは由貴は優等生ではある。雛子に特に絡もうともせず、すっと行ってしまおうとした。

 雛子は由貴のことをひどく傷つけてみたい衝動にかられた。

 四季や忍は優しい。傷つけてみてよくわかった。あのふたりは傷を受け止めてしまえる人の良さがある。

 雛子が望んでいるような激しい感情をぶつけては来ないだろう。

 そういう意味では雛子は四季や忍をさらに傷つけてみたいとは思わなくなっていた。

「ねぇ、知ってる?」

 雛子は穏やかに由貴に話しかけた。

 由貴は雛子を振り返る。

「知ってるって?」

「揺葉忍が本当は誰を好きだったのか」

「桜沢静和さんだろう」

「違うわ。その後よ。知ったら、あなた驚くわよ」

「……。誰なの?」

「綾川由貴よ」

 由貴の表情が信じられないというようなものに変わる。

 愉快だった。雛子は笑った。

「可笑しい。本当に全然知らなかったのね。四季くん、可哀想。綾川由貴のことを想っている揺葉忍のことを見守っているのって、つらかったでしょうに。揺葉忍も、片想いにまったく気づいてももらえなくて、どんなにか胸を痛めたか知れないわね」

「…嘘だ」

「嘘じゃないわ!私、たった今、器楽室で桜沢さんが吉野さんたちと話しているのを聞いてきたんだもの!」

「……」

 由貴が絶句する。

 たまらなかった。こんな綾川由貴を見られるなんて、そうそうない。

 雛子はとどめを刺すように言い放った。

「綾川先生も知っていたもの!四季くんや揺葉忍に聞いてみるといいわ!本当なのかどうか!」

 呆然と立ち尽くす由貴に、雛子はひとかけらの憐れみもかけず、走り去る。

 楽しい。

 この楽しさは何だろう?

 雛子の痛んでいた心は、その楽しさで幾分紛れていた。

 本当は愛されたかった。

 綾川四季に。

 四季でなければ、意味がないのだ。



     *



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