時は今
行き場のない思いや、やり場のない思いは、たぶん個々の人間がそれぞれに抱えている。
それを簡単に人のせいに出来る人もいるし、それはどうかと己の領分を弁えてその場に応じたふるまいが出来る人もいる。
吉野智は忍に「もっと自分を大事にしろ」と言ったが、それは頭で考えるとひどく無理があることのように忍には思われた。
それから、吉野智のように感覚でそれをわかっている人間は、それが何のことはなく自然に出来るのだろうということも。
でも──。
忍は、そういった感情の発露が上手くはない子も身近に見てきていた。
桜沢涼である。
涼も何処か忍と共通した「人にわかりづらい」空気を持っている人間で、佇まいに乱れがなく、完璧な「姫」だった。
涼はそれを自覚していて、その上で無理に自分を理解してもらおうとはしない、さらりとしたところが忍にはよく理解出来た。
まだ理解してもらえるかもしれないという希望があるうちは、忍も言葉や気持ちを伝えようと意識的に働きかけた。
けれども、理解してもらえる時というのは、大抵理解してもらわなくても問題のない時で、理解してもらえない時というのは、どう伝えても、人が「面倒だから」「重いから」と関わりたがらないような内容だった。
涼に「心がひとりなのはつらくないか」と聴くと、「智みたいに想ってくれる友達もいるし、忍ちゃんみたいな人もいてくれるからつらくない」という言葉が返ってきた。
涼は、自分が、人のそういった、その人にしかわからない重いものを理解出来るか、共有出来るか、と問われたら出来ないから、自分も人にそれを求めないのだと言った。
求めることを許してくれる人がいたとしても、それは会長くらいだろうと。
忍はそれを聴いてほっとした。
許してくれる人がいる──。
自分にそういう人がいるとしたら、それは綾川四季がいい。