時は今



 感覚がわからなくなっているというのは、心だけの感覚のことではなかった。

 身体の感覚が──わからない。

 眠りに落ちて、眠りから醒めた時には静和は何処かに行ってしまっていた。

 何を思うわけでもなく、忍の手は自然にヴァイオリンを取っていた。

 感覚のない状態で楽器を扱うというのは、最初自分の中で不協和音を起こしそうだった。

 わからない。わからない。わからない。こうではなかったのに。こんな音では。

 私は何処へ行ってしまったのか。

 全神経を研ぎ澄ますように、知っている感覚という感覚を呼び起こそうとした。

 幸い、ヴァイオリンの音だけは確かな機微を持って鼓膜を震わせてきた。

(大丈夫)

 まだ聴こえる。

 一心に「響かせたい音色」を求める忍の弓はやがて、一定の揺るがぬ輝きを持って、旋律を奏で始めた。

 丁寧にひとつの曲を弾ききり、忍はゆっくりと弓を下ろす。

 そこで初めて外界の景色を目に映す。

(あの人はどんな音を聴かせるのだろう)

 綾川四季という人の音が気になった。

 忍の足が丘から動いた。

 この場所は星が綺麗だけれど、思い出ばかりが輝いていて「今」が見えない。

 自分と同じ年頃の子が何をしているのか。

 忍はそれが気になった。

 名前がわかるなら会いに行ける。

 会いに行こう。「今」に。





< 95 / 601 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop