時は今
感覚がわからなくなっているというのは、心だけの感覚のことではなかった。
身体の感覚が──わからない。
眠りに落ちて、眠りから醒めた時には静和は何処かに行ってしまっていた。
何を思うわけでもなく、忍の手は自然にヴァイオリンを取っていた。
感覚のない状態で楽器を扱うというのは、最初自分の中で不協和音を起こしそうだった。
わからない。わからない。わからない。こうではなかったのに。こんな音では。
私は何処へ行ってしまったのか。
全神経を研ぎ澄ますように、知っている感覚という感覚を呼び起こそうとした。
幸い、ヴァイオリンの音だけは確かな機微を持って鼓膜を震わせてきた。
(大丈夫)
まだ聴こえる。
一心に「響かせたい音色」を求める忍の弓はやがて、一定の揺るがぬ輝きを持って、旋律を奏で始めた。
丁寧にひとつの曲を弾ききり、忍はゆっくりと弓を下ろす。
そこで初めて外界の景色を目に映す。
(あの人はどんな音を聴かせるのだろう)
綾川四季という人の音が気になった。
忍の足が丘から動いた。
この場所は星が綺麗だけれど、思い出ばかりが輝いていて「今」が見えない。
自分と同じ年頃の子が何をしているのか。
忍はそれが気になった。
名前がわかるなら会いに行ける。
会いに行こう。「今」に。