三日月の下、君に恋した
 声は別人のようにかすれていた。目は遠いところを見ていて、疲れているというよりも、後悔しているように見えた。

 菜生は軽いショックを覚え、思わず「ごめんなさい」と言った。

「沖原さんのせいじゃないよ」

 うっすら笑みを浮かべて、彼はのろのろとベンチから立ち上がった。今にも倒れそうな気がして、菜生は手を伸ばしそうになった。


 けれど、菜生が手を伸ばすよりも先に、彼が菜生の手をとった。大きな手に包みこまれる。

「ありがとう」


 彼はしばらくの間、菜生の手を握ったままうつむいていた。

 彼の手から、波打つように失望が伝わってきた。


 浅はかな言葉では癒せない、深い悲しみのように思えて、菜生はどうしていいかわからなくなった。


 彼はもういちど「ありがとう」とささやいて、菜生の手をほんの少し強く握りしめた。そして手をはなすと、菜生の視線を避けるように、一方的に背中を向けた。


 菜生は、そのとき去っていく彼に声をかけることが、どうしてもできなかった。

 明日になれば、また会える。

 明後日も、明明後日も、会える。そう思っていたから。


 だけど、彼は翌日から会社に来なくなった。

 そしてそれきり、菜生の前から姿を消した。
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