三日月の下、君に恋した
「こんにちは。久しぶりですね」

 紳士は親しみのこもった笑顔でにこやかに言って、菜生の隣に腰を下ろした。菜生もほほえんで「こんにちは」と言った。


「最近お見かけしなかったから、心配してたんですよ。お元気でしたか」

 紳士は苦笑いを浮かべ、「ちょっと寒かったからね」と肩をすくめた。


 彼は暖かそうな毛糸の帽子をかぶり、手袋をはめ、マフラーをきっちり巻いて、もこもこしたダウンジャケットを着込んでいた。顔を見ると、前に会ったときより少し痩せたような気もする。

「外に出るのが億劫になってしまってね。でも、今日は暖かくて良い天気だ」

「もうすぐ春ですもんね」

 彼はおもむろにスケッチブックを開き、真っ白なページに指を這わせた。

「まだ真っ白ですね」

 菜生がくすっと笑うと、彼もほほえみ返してきた。

「困ったもんです。ほんとうに描き方を忘れてしまったようだ」


 菜生がはじめて紳士に出会ったのは、昨年の夏の終わりだった。そのときも彼はスケッチブックを手にしていた。真っ白なページを開いて、何も書けないまま公園の風景をぼんやり眺めていた。
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