三日月の下、君に恋した
 無人のエレベーターに乗りこむと、金曜の夜のことを思い出した。


 あのときも、狭い空間で二人だけで、何も話しかけられずに彼の後ろ姿をただ見ているだけだった。

 あのときと今とでは、菜生の気持ちは全然違っているのに、二人の関係は何ひとつ変わっていない。彼は菜生に背中を向けて、エレベーターの階数表示を見ている。


「来週……いつだったら空いてる?」


 とつぜん、彼が階数表示を見つめたまま聞いた。

「え?」


「話、ちゃんと聞くって言っただろ。だから、会社じゃなくて外で会おう」

 菜生はとっさに返事ができなかった。今、何て言った? 聞き間違い?


 エレベーターが停まり、扉が開いた。通販課のフロアだ。


 菜生が降りようとすると、彼に片方の手首をつかまれた。菜生のてのひらの中心に、ボールペンで走り書きをする。あっという間のできごとだった。


「連絡して」


 菜生を降ろして、エレベーターの扉が閉まる。

 つかまれた手首に、彼の体温が残っている。


 そっと左手をひらくと、黒いインクで電話番号が記されていた。それは菜生のてのひらに残された、秘密の暗号か呪文のように見えた。


 困る。


 心臓が、怖いくらいの勢いで鼓動を打ち鳴らしている。


 こんなの、期待しすぎて困る。


 一瞬さわられただけなのに、もっとふれたくてたまらなくなるなんて──困る。
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