弟矢 ―四神剣伝説―
『朱雀』を払われ、一矢は舌打ちして身を翻した。『白虎』を手にした乙矢に刃向かう術はない。そして乙矢なら、背を向けた一矢に斬りかかることはない、そう思った。

だが、今の乙矢は一矢の知る弟ではなかった。

逃げようとした一矢に、乙矢は間断なく攻め込んだ。ついには足が縺れ、地面に手をつき座り込む。その一矢の顔面に、土煙を上げ這い上がってくる『白虎』の切っ先が目に入った。この時、乙矢の全身から剣気が吹き荒れ……。

一矢の背筋は一瞬で凍りついた。
 

しかしそれは乙矢も同じこと。

腕が、足が、体が、『白虎』の命じるままに動く。目の前の敵を倒そうとする。『青龍一の剣』を持った時とは比べ物にならない。じゃじゃ馬というより野生馬の如き暴れようで、『白虎』は人の手により制御されるのを、明らかに拒んでいた。

だが、鬼に憑かれるような感覚とは全く違う。

乙矢の意識はハッキリしていて、暴走させまいと必死に闘っていた。だが、爾志流下段に刀を構え、一矢の首を捕捉した瞬間――ごく自然に剣先を斬り上げていた。

そのまま引導を渡せと『白虎』が乙矢の四肢に指令を出す。


『殺したくない』――乙矢の思いが、全身の神経と筋肉に急制動を掛ける。それは乙矢にとって、体の節々から火を吹きそうなほどの痛みを伴った。


『白虎』の刃は、一矢の喉元を切り裂く半寸手前でぴたりと止まった。

恐怖を通り過ぎ、朦朧とした表情の一矢とは対照的に、乙矢は決死の形相だ。指は真っ白になるほど力を籠め、額には汗が噴き出し、顎を伝い滴り落ちる。


「一矢……そのまま下がれ……もう、終わりにしよう。じきに幕府軍もやって来る。投降して裁きを受けてくれ。爾志の一門として、俺も一緒に責めを負う。だから」

「殺せ! さあ殺せ。お前自身の手で実の兄を殺してみろ! ぐだぐだ綺麗事をぬかす暇があるなら、お前のせいで鬼になったこの私を、さっさと殺すがいい!」


一矢は一瞬で目を吊り上げ、怒りを露わにして乙矢を責め立てた。


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