万年樹の旅人

 ふう、とため息をついて、辺りを改めて見渡す。

 チューリップやアネモネ、ポピーなど、太陽の色を吸い込んだかのように明るい花々が風に揺れる。少し苦みのある花の香りが、ユナの気分を落ち着かせた。

 勿体無い、と言って真っ白のまま終わらせてしまえば、きっと先生はユナを叱る。そうすれば、ラムザ爺さんは悲しむだろう。気を使わせるために学舎に通わせているのではない、と言ったのはいつのときだったろうか。白いふさふさした眉がぐんと下がったさらに下にある瞳は、ユナの胸の痛みを強く誘う、落胆の色をのせていた。

 そうして、ようやく筆を動かす。

 雨の少ないこの土地は、湿気も少なく絵を描くには申し分ない環境だ。

(ルーンやジェスのいる場所はこんなふうなのかな)

 頬にさす陽は柔らかい。冬の冷たさをなくした風は、目の前の花たちと笑いあうように踊る。一年の中で、ユナが一番好きな季節は春だった。

 夢の中でみる景色には、ユナがぼろぼろになるまで見た図鑑に載っている花はないけれど。でもきっと肌で感じる温度は同じくらいなのだろう。夢から覚めてしまえば、感じていたと信じて疑わなかった温度も音もにおいも全て、飛沫のように散ってしまう。けれども、ユナがジェスとして存在している瞬間は、確かに確信しているのだ。春の暖かな温度も、乾いた土や草木のにおい。そして万年樹の重なり合う葉が風と同調して歌う音も。

 ジェスとルーンが出てくる夢を見るようになってから、もう随分と経った。

 初めの頃は目覚めた直後、自分の体が自分のものではないような、薄気味の悪い感覚だった。水汲み場まで駆けていき、水面で揺れる自分の姿を確かめないと怖くて仕方がなかったが、最近はそういった焦燥や不安感はなくなった。そればかりか、夜眠るのが楽しみだと思う自分がいることに驚く。慣れ、とも進歩、とも違う。

 もう一人の自分を楽しむ――そう表現するのが一番適当に思えた。
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