美味しい時間
その顔があまりにも可笑しくて頬が緩みそうになるのを堪え、パソコンに向き
直る。
課長の態度が面白くないのか、倉橋さんは少し不機嫌な顔をしながらも帰り支
度を整えると、ヒールをコツコツ鳴らしながら帰っていった。
課長の存在を気にしながらも入力作業を続けた。するとフロアには、本当に2人
っきりになってしまった。課長が椅子をガタッと動かすだけで身体が緊張してし
まい、仕事に身が入らなくなる。一刻も早くこの状況を抜け出そうと、一心不乱
に仕事に集中しようとしたその時……。
「百花っ」
さっき倉橋さんが来る前の聞こえるか聞こえないかの小さな声とは違い、ハッキ
リした声で呼ばれ、身体がビクッと大きく反応する。
誰もいなくなったとはいえ、ここは会社だ。いつ誰が戻ってくるか分からないの
に名前を呼ばれて、どうしたらいいか分からずうろたえていると、課長が席を
立ちこちらに向かって歩き出した。緊張は限界値を超え、思わず目をギュッと
瞑った。
と同時に、ふわっと頭に手が置かれる感触がした。
「悪かったな。仕事渡す量、多すぎた。もう帰っていいぞ」
「で、でも後少しで終わりますし……」
頭に置かれていた手が頬に降りてきて、そっと撫でる。自然とその手に擦り寄っ
てしまいそうになり、慌てて顔を背けた。
「明日……」
その後も何か言おうとした課長の言葉を遮るように、勢い良く席を立つ。
「私、やっぱり帰ります」
デスクの片づけもそこそこに鞄を持つと、逃げるようにフロアを飛び出した。