桜花舞うとき、きみを想う
「礼二さんが奥さまのことを大切に想っているのは承知しています。でもわたし、後悔したくないの。このままお別れするのは嫌なの」
素子さんは、固まるぼくの両腕を掴み、真っ直ぐにぼくを見ていた。
「ここにいて」
素子さんがぼくの首に抱き付いた。
慌てて素子さんの体を受け止めた拍子に足が崩れて尻餅をつき、すると、ちょうどぼくの両足の間に素子さんがおさまる格好になった。
ぼくの首にしがみついた素子さんの体は、服の上からでもわかるほど、熱く火照っていた。
「わたしのこと、愛してくれなくて構わない。奥さまの代わりだっていいの。あなたと今夜一緒に過ごせたら、それでいいから、だからお願い、礼二さん」
素子さんの声は途切れ途切れで、微かに震えていた。
素子さんがいくらハキハキとした人だからといって、女性の口からそんなことを言うのは、どんなに勇気がいったろう。
彼女は、秘めた想いを遂げるには、今夜が最初で最後とわかって、閉じ込めていた感情を爆発させ、真っ直ぐにぼくにぶつけていた。
素子さんがゆっくり顔を上げると、ぼくと素子さんは鼻が触れ合ってしまいそうな距離で視線を交わした。
こんなとき積極的なのは、やはり芯のある女性のほうで、素子さんは動揺を隠せないぼくの唇に、自分の唇を押し付けた。
そのぎこちない、ぼくの人生最後の接吻は、さっき食べたすき焼きの味がした。