ひとまわり、それ以上の恋
「――もう、いいです」
「菊池さん
「やめて。分かりましたから。言わないで」

 自分でもびっくりするぐらい大きな声が出て、瞳の中に涙が浮かんでくる。零れないように必死になっていると、市ヶ谷さんはなだめるように私の頭をやさしく撫でた。

「七月になったら、祇園祭に連れていくよ。僕が、君のお父さんの代わりに。君が僕に望んでいることは、そうじゃない?」

 市ヶ谷さんの大きな手が私を撫でるのは、きっとお父さんの身代わりのつもりだったんだ。それから、それから……ぐるぐるぐるぐる、頭の中で回っていく。

 欲情したくなるのは、その相手は、私じゃなくて……。

「一つだけ、聞いていいですか」
 市ヶ谷さんのハンドルに置かれた手が一瞬ピクリと動く。

「母のこと、今でも……好きですか?」

 何秒かの沈黙は、私にとってはイエスに聴こえてならない。でも、市ヶ谷さんの口から返ってきたものは、当たり障りない言葉だった。

「大切な人だと思ってるよ」
「そうじゃなくて――」
 私の声を遮って、市ヶ谷さんは言う。

「君が僕に、特別な気持ちを抱いているとしたら、それは深層心理のせいだと思ってる」

 市ヶ谷さんはダッシュボードの上にあげてあった本を開いて、その一ページを指でトンと触れた。そのページには栞代わりに企画書が挟んであった。
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