アジアン・プリンス
2時間後、ティナは海の上にいた。


「30分ほどで着くから。しばらく辛抱して欲しい」


中型クルーザーの操縦席からレイが声を掛ける。どこへ行くのか、なぜ、深夜に宮殿を抜け出さなければならないのか……レイは全く説明してくれない。とにかく、「黙ってついて来て欲しい」それだけだ。

船は時速40キロ以下のスピードで、静かに真夜中の海上を進んでいた。

キャビンは広めの作りで、奥にはベッドルームもあるようだ。シャワーやトイレ、簡易キッチンまである、外洋まで出られるタイプだろう。

キャビンのソファにティナはひとりで座っていた。ふと、大型クルーザーをチャーターして、家族で遊びに行った時のことが、彼女の頭によぎる。



ティナはまだ10歳だった。家族全員でのバカンスは初めてで、あのときは、父も家族のことを愛してくれているのだ、と素直に感謝していた。だが、そんな娘に母が言った言葉は――。


『取引相手が家族を大切にされる方だったの。契約を取るために、お父様も同じようになさったのよ』


8年前も同じだ。当時16歳のティナは結婚を申し込まれていた。相手はアラブ系ブラジル人の富豪で50歳は過ぎていたように思う。再婚だったか再再婚だったか、詳しいことは覚えてはいない。アラブ人国家と太いパイプを持ち、それを目当てに父は承諾しようとしていたのだ。


『王族並みの生活が送れるんだぞ! なんの不服がある!』


抗議したティナに、父はそう言い返した。

結局、事件のおかげで縁談は流れ……。あれ以降の人生で、唯一幸運なことと言える。そう、ほんの数週間前までは。


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