結婚したいから!
このファミリー向けのマンションにも、ずいぶん慣れた。オートロックの解除をして、エレベーターに乗って。フロアや部屋を間違えて、回らない鍵にあたふたすることもなくなった。

かちゃり。

ほら、ちゃんと開いた。ほっとして、ドアを開けながら「ただいま」ってひとりごとを言ってみる。


「おかえり…っていうか、ケータイくらい持ってけ、馬鹿」


予想外に返事が返ってきて、びっくりする。

ああ、リビングに、かすかに明かりが付いている。部屋の中も、蒸し暑さを感じないってことは、すでにエアコンがついてるってことだ。

誰かが、家にいるって、こんなにほっとするのか。

長期休暇中の私は、外出すること自体が少ないし、まして夜なんか家に閉じこもってる。この1週間、「おかえり」っていう役しか演じたことがなかったから。


「ただいま。ただいま!祥くん、ただいま!!」
嬉しくて、走ってリビングのドアを開けると、「何回も言わなくても聞えてるし。うっせえな」って、鬱陶しそうな顔してるくせに。

わたしの泣きそうな顔に気がつくと、とたんに、言ってくれる。


「おかえり、海空」


って。わたしの頭を叩く手は乱暴だけど、あたたかい。


ひとしきり泣いて、落ち着いてくるころを見計らったみたいに、祥くんが言う。

「どこ行ってたんだよ。まずそうな飯は作りかけだし、ケータイは置きっぱなしだし、玄関のドアの鍵は開いてるし。何かの犯罪に巻き込まれたんじゃないかって、一瞬考えたぞ」

「うえっ!!ごめん!!短大の頃からの一番の友達に会ってきたの。急に早く仕事が終わったんだってメールがあってね、紗彩って言うの。うわぁ、ごめんね、鍵」

我ながら、ひどすぎる…。

ずいぶん慌ててたのは確かだけど、自分の家でもないのに鍵をかけ忘れるって、どれだけ無責任なんだ…。

「鍵はいいけど、どこに行くのかくらい知らせろ」

「え?なんで?」


「一応、家族だろ」
「…うん、うん。わかった。ちゃんと知らせるね」

いつもは意地悪ばかり言って、わたしをいじめるくせに。ふとしたときに、わたしが心底欲してる言葉をくれるのは、どうして。

偽物の家族だけど、ちゃんと、わたしの心と体を休めてくれる。


「…また泣いてんのか」

だって、祥くんが優しくするからでしょ、って喉まで出かかってたのに。


「お前の作ったまずい飯を食った俺の方が、泣きたい」


…って、なんなの!!ちょっと、あれを、あれを!!な、なんで食べるのーーー!!

「あれ、何だ?どろっどろで、味しねえし。うわ、なんか腹までいてえし」

「ひっどい!!カルボナーラを作りかけてたの!ちゃんと本見ながら作ったのに、なんで!?っていうか、勝手に食べるなー!!」

結局、いつも通りの意地悪な祥くんに、わめくだけになってしまう。


「…へえ。そんな生意気なこと言っていいんだ。明日の朝、俺の作った飯食うなよ」

「あ、ごめんなさい。ええっと、食べてくださって、ありがとうございました」

そして最後は、すっかり祥くんのペースに戻って、終わるんだ。
いっぱい、いーっぱい、助けてもらってるのになぁ…。ありがと、っていつ言えばいいんだろう。

再会したとき、祥くんが死にそうと言ったのはさすがに大げさだと思うけど、わたしはとても弱っていたはずだ。大切に育てていた恋を、途中でぽきんと折られて。

いつかは元気になれるんだろうか、ってぼんやり思いながら、なんとか毎日をやり過ごしていた。

ひとりぼっちで、自分の中の嵐がおさまるのを、小さくなって祈りながら待っているしかなかったのに。


こうして、一緒にいて、どうでもいいことを言い合えるだけで。悲しいことを思い出す回数は減る。ひとりのときには止められない涙が、止まる。

ありがとう、って伝えるのって、こんなにタイミングを逃すものだっけ。

「お前、煙草くせえ。風呂入ってこいよ」

「ん?わかった。禁煙席だったのになぁ。」

鼻をすりつけて確かめれば、服にはかすかに煙の臭いがついてる。同じお店の中だから、多少は煙が漂ってくるんだろうけど。

祥くんは、においに敏感らしい。

祥くんの家にあるものは、どれも香りが強くない。服を脱いで、洗濯機に放り込み、バスルームに入る、この一連の動作にも慣れてきた。ほら、このシャンプーだって、今はほのかな柑橘系の香りがするけど、ドライヤーで髪を乾かしちゃえば、ほとんど無香になってしまう。

はじめは、物足りなく思ったそんなことにも、自分の心が落ち着くのを感じるようになってきたわたし。

お風呂にゆっくり入らせてもらった後は、汚れも余計な香りもない、ただのわたしになって、広いベッドで、体も五感も休めることができる。この頃は、そう思う。

バスルームを出て、着替えると、そのまま洗面所で髪を乾かした。リビングのパソコンで何かちょっとした仕事をしていたらしい、祥くんのところに行く。


「もう臭くない?」

「うん。寝ていい。…もう、寝れんのか?まだ10時だけど」

わたしの髪の香りを確認して、祥くんがわたしの表情も確認するみたいに顔を見つめてくる。
「うん。眠いよ。今日はね、親友に彼氏ができたって聞いたから、なんだか幸せな気分なんだ」

紗彩のいつも以上の華やかな笑顔を思い出すと、わたしまで嬉しくなる。

「そっか。じゃあ、さっさと寝ろ」

「うん。祥くん、おやすみ」


「…おやすみ」


わたしの気分が明るいのは、紗彩のおかげだけじゃない。祥くんのおかげでもある。

ただいまって言ったら、お帰りって返事してくれた。家族だって言ってくれた。

今だって、面倒なのか、自分からは言ってくれないけど、わたしが言えば、仕方なしにでもおやすみって返事してくれる。

祥くんのその不器用な優しさが、今のわたしにはちょうどいい。

祥くんは、わたしがあまり眠れないってことにも、気がついてる。面と向かって何か言ってくるってことはないけど。今日みたいに早い時間にベッドに向かうことが珍しいってことを、わかってる。


今日は、風があるから、寝室の窓を開け放ってみる。湿り気を帯びた風は重いけど、昼間よりずいぶんと涼しくなって、冷え症の私にはちょうどいい。

コットンのシーツが、肌になじんでくるのも、夏は早い。


久しぶりに、あっさりと、柔らかく、眠りに落ちる。
……でも、駄目だった。


気分よく寝つけたし、そのままぐっすり眠って、朝を迎えられるんじゃないかって思ってたけど。

紗彩から、幸せを分けてもらったと思ってたけど。見たくもない夢に出てきたのは、早川さんの大きくなったお腹を撫でる玲音さんだった。紗彩の幸せを分けてもらったのは、夢の中のふたりだったらしい。

赤ちゃんに免じて、身を引いたと言うのに、わたしってしつこい。いつまでこういう夢を見れば、完全に忘れることができるんだろう。

目覚めたと言うのに、しつこく流れる涙は、枕の上に乗せておいたタオルに吸い込まれていく。まだまだ、タオルなしでは眠れないらしい。うっ、と泣き声が漏れそうになるのを、息を止めてこらえる。


暗闇の中、広いベッドの片側に、目を凝らす。

そこに、祥くんが眠ってるから。

膨らんだタオルケットが、ゆっくりと上下している。

…よかった、起きてない。

それだけを確認して、そっと布団にもぐり、タオルを顔に押し当てる。


ふふ。ふいに、紗彩に言われた言葉を思い出すと、笑えた。「もう寝ちゃった?」だって。「毎晩、同じベッドで寝てるよ」って言ってやれば、びっくりしただろうなぁ。そう言ってみればよかった。今度言って、反応を見てみようかな。
よかったぁ。涙のせき止め、成功。夢の世界から、意識を引きはがすのに、毎晩苦労する。

今日は早々にその面倒な作業を切り上げることができて、ほっと安堵のため息をついた。紗彩に感謝。


もちろん、いくら子どものころは、一緒に枕を並べて寝た仲だとは言っても、わたしだって、これはどうかと思うよ。


いくらわたしが「貧相な体型」で「わざわざ見る気もしねえ」と、祥くんが思っていたとしても…、いや、思ってるどころか、はっきりそう言われたけど…。

一応、わたしだって、遠慮だとか、羞恥心だとか、そういうものを持ち合わせているつもりだ。変な寝言を言ったり、ベッドから落ちたり、よだれを垂らしたり、…そんな無防備な有様を他人にさらすつもりは毛頭なかった。


なかった、んだけど…。

おいしいハンバーグを、むせび泣きしつつ食べた、あの初めての夕食の後。調子に乗ってごくごく飲んだ、甘口のワインが、後からガツンと効いたらしい。ダイニングのテーブルが冷たくて気持ちいいなあ、ってそこに頬を押し付けていた記憶を最後に、わたしは眠ってしまったらしい。


気がつくと、広いベッドで眠っていた。あれ?って思ったけど、アルコールのおかげか、夢も見ない深い眠りへと、またすぐに引きずり込まれて。
次に目を覚ましたときには、子どもの頃を思い出させる、祥くんの寝顔を見つけた。

キングサイズって言うのか、ベッドがかなり広いから、手を伸ばしても届かないような距離だけど、少し明るみ始めた窓の外から届く光で、彼の姿が確認できた。

起きている時より、幼くて、無防備で、なにより…懐かしい。

その顔を見つめているうちに、夜はすっかり明けた。

わたしの心は不思議と安らかで。たぶん、祥くんの目覚まし時計の音が鳴る直前に、また寝ちゃったんだと思う。

朝ごはんができて、叩き起こされた時には、久しぶりにものすごく眠かったから。


そんなふうに、1日目の夜を過ごしてしまったから。


「なあんだ」って、思った。


急に引っ越して別れることになってしまった、祥くんに、お別れも言えなかった。あの当時の、どこか気まずい気持ちを引きずったままだったんだと思う、わたしの方は。

でも、祥くんは、変わってない。

そのことに、安心した。わたしとは違って、ためらいなく隣ですやすや眠ってる、祥くんに。

だから、それからも、毎晩、厚かましく祥くんのベッドで寝てる。
―――ずびっ。


布団をかぶっていたにも関わらず、鼻をすすった音が、静かな部屋にやけに響いた。うーん、泣くと涙だけじゃなくて鼻水も出るから嫌だ。

はぁ。

ため息をついたその時、がさっとシーツの音がしたと思ったら、背後から、ぐっと首に腕が巻きついてきたから、息が止まるかと思った。


昔のことは憶えてないけど、本人いわく、祥くんは、かなり寝相が悪いらしい。だから、広いベッドに寝てるんだって言ってた。

お互いがベッドの端でおとなしく寝てる日もあるけど、なんだか体が不自由な感覚に目が覚めると、わたしの体のどこかに祥くんの腕や足が乗っていた、っていう日が結構ある。気が付いた時には、いつも笑いをこらえながら、そっと、ベッドの空いたスペースに移動していた。


あの、態度のでかい祥くんが、寝ちゃったら、まるで子どもみたいだなって思って。広いベッドを買う前に、抱き枕を買った方が寝相も落ち着くんじゃないかって思って。そう思うとおかしくて。


でも、こうして腕が絡みつく瞬間に、わたしの目が覚めてたのは初めてだったから、ちょっとびっくりした。

そっかあ、こんな深夜に寝ぼけて、広いベッドの上を転がってくるのかあ、なんて思っていたら。


ぽかぽかの温かい指先が、そうっとわたしの頬を撫でた。


その一瞬で、わたしは、祥くんの寝相が、尋常じゃなく悪い、その理由を悟った。

顔は見えないけど、祥くんのため息が、わたしの髪に温かい空気を含ませたことにも気が付いた。

止まったはずの涙が、再びわたしの目からこぼれ始めてタオルを濡らしていたからだ。


さっきまで深い眠りの中にいたんだってことを、彼の温かい手は教えてくれる。指では間に合わなくなって、手のひらで涙をぬぐってくれている。


祥くん、ごめんね。ありがとう。


背中を向けて寝たふりをしたままで、心の中でそう思う。どれほど心配をかけていたんだろう。

明日も仕事があるのにね。わたし、夜泣きする赤ちゃんみたいだね。わたしが赤ちゃんだったら、祥くんがお母さんか、って思うと、あまりに似合わなくて涙が止まった。

お母さんの役がちっとも似合わないのに、わたしが泣くと、いつもこうして涙を拭いてくれてたんだね。

何にも気がつかなくて、毎晩のようにめそめそ泣いて、ばかだなあ、わたし。


わたしが起きてるときには容赦なく叩くくせに、寝たふりをしている今は、優しく髪を撫でるその手に、寝かしつけられたみたい。

今度は、何の映像も画像もない眠りの中にすとんと落ちた。
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