結婚したいから!
「…おい、どうしたんだよ」

いつも以上に低く、祥くんの声が響いて、ああ、もう朝になっちゃったんだ、ってさらに慌てる。

もう、この卵の殻!卵黄の後ろに隠れてしまって、なかなか取れない!っていうか、なんでこんなに大量の殻が混入したのか、自分でもわからない!


「たまには、わたしも朝ごはんを作ってみようかと思って」

電子音がメロディを奏でて、炊飯器がご飯だけは無事に炊きあげてくれたらしいことに、安堵する。

沈黙してしまった祥くんの方を、振り向いて、すっかり忘れかけていた「おはよう」を言ってみる。

いつものムッとしたような顔でも、馬鹿にしたような顔でもない、戸惑った顔で、寝起きのくしゃっとした髪のまま、突っ立っている祥くんは、なんだか可愛らしい。

「祥くん、お·は·よ」

しつこく言うわたしに、祥くんは仕方なく「おはよ」と呟いたものの、その声は、ため息混じりだった。


諦めて、先に身支度を整えたらしい祥くんは、次にリビングに戻ってきたときには、いつも通りの隙のない顔をしていた。英語じゃないどこかの外国の言葉を羅列したグレーのカットソーに、黒のパンツ、っていうシンプルな装いだけど、色彩も遊びもないその組み合わせが、祥くんらしい。
「祥くん、ごはん、できた…はず。食べてみようよ」

似合わない小さな声で「すっげえこわい」って祥くんが呟いたけど、聞こえないふりをしておいた。わたしだって、「すっげえこわい」よ!

今まであんまり料理したことがないのに、おいしく作れるはずがない。そんなことわかってる。


でも、祥くんの優しさに、なにかお返しがしたかった。

そう思っていたところに、珍しく早く目が覚めたから、炊飯器だけセットしようと思ったのが始まり。

さすがにわたしでも、お味噌汁くらいは作れるんじゃないかって、いりこを探したら見つかって。目玉焼きくらいは焼けるんじゃないかって、冷蔵庫を覗いたら、卵が入ってて。


「お前、さっき目玉焼き作ろうとしてたよな」

うっ、鋭いご指摘。

あまり気が進まない様子で、ダイニングテーブルに来た祥くんは、明らかに表情を曇らせて、お皿の中を覗き込んでいる。

「スクランブルエッグもおんなじ卵だしね。えへへへ」

彼の表情の変化ももちろん、見ないふり。お皿やお箸を並べていく。

おそるおそる炊飯器を開けてみると、中ではほかほかとおいしそうにご飯が炊けていた。

あ、よかった。主食だけは何とかなりそうだ。
「…何の拷問?」

「へ?」

ごはんをよそったお茶碗をことんと置くと、祥くんが苦悶の表情を浮かべていた。あ、珍しい、その人間らしい顔。

「味がしねえってだけなら、まだ許せる。…なんかじゃりじゃりするんだけど。異物が混入してる」

あ、やっぱり。やっぱり、取り除き切れなかったか。あの卵の殻。必死で箸で拾ってるうちに、目玉焼きはすっかりぐちゃぐちゃに潰れた。

「ふふふ、カルシウムだよ」

って言ったら、「ふざけんな」って頭を叩かれた。いつもより心なしか力が強い気がするんだけど。


自分でも、箸をつけてみる。

ひいぃ、卵、ほんとに、じゃりじゃりする。小さい殻がひとかけら入った、ってレベルじゃなくて、笑えて来る。

うわ。お味噌汁、からい。でもまあ、ごはんと一緒に食べちゃえばいっか。

ごはんだけは炊き立てだから、文句なく美味しいもん。水加減も間違えなかったみたい。そうだ、おにぎりにしてみよう。

ひらめいて、キッチンでいくつか握って戻ってくると、祥くんは意外にも全部のお皿をきれいに平らげた後だった。

「全部、食べて、くれたの?」

びっくりしてるわたしの顔を見もしないで、勝手におにぎりを取って、口に運んでる祥くん。


「俺、朝はすっげえ腹減るんだよ。背に腹はかえられねえだろうが」

言いまわしに、不満はあるけど。


「うまい」

「だね」

おにぎりの乗ったお皿も、すぐに空になる。おにぎりだけにしておけばよかったのにな、って自分でも思う。


絶対に文句を言われるってわかってたのに、おかずも作った。祥くんは、わたしの気持ちだけはちゃんと理解してくれるって、信じてたから。

これまで好きだった人や、彼氏だった人には、嫌われるのが怖くて、食べ物を作るのが嫌だったのにな。
「次に作るときは、握り飯だけにしろ」

案の定、そう言われるのに、なぜか祥くんには言い返せる。

「もうっ!ちょっとずつ上手になるから、我慢して!!」

「キツ」

祥くんの返す言葉は、相変わらず辛辣だけど。他の人には知られたくない欠点でも、祥くんになら見られても大丈夫だって、わたしは経験上知ってる。


幼稚園の庭で、夢中で遊んでいたらお漏らししちゃって呆然としてた時も、「先生が呼んでるぞ」ってさりげなく教室に帰らせてくれた。

小学校の運動会のときも、クラス対抗リレーで見事にすっ転んだわたしがなんとかゴールした時には、泣き顔に、タオルをかけて隠してくれた。

他にも、わたしが憶えてないことだって、たくさんあるんじゃないかと思う。どんな失敗しても、格好悪いところ見せても、祥くんの態度は変わらなかった。


「ごちそーさま」

はっとして振り返ったときには、祥くんはリビングのドアから出て行くところだった。

広い背中や、やけに低い声は、彼が大人になったってことをはっきりと示してくるけど、変わらない優しさを内に秘めていることには、なんの疑いもなかった。


わたしの方だって、祥くんがどんなに意地悪しても、冷たい顔しても、平気だったっけ。


貴重な、存在だってことは、あの当時からちゃんと、わかってたつもりだ。


だから、こうして再会できたこと、この偶然に、心から感謝してる。

……誰。

「たっだいまぁ~♪」って、上機嫌でへらへら笑いながら、玄関に上がり込んでくる男の人。

隣の家の、人?部屋を間違えて入ってきたとか?え、わたしじゃあるまいし。

いやいや、鍵だって、閉めてたと思う、たぶん。ああ、前科があるから、それも自信がないな。


「…えっと、どなたでしたっけ」

「幸大だってば。ただいま、海空ちゃん!」

って抱きつかれそうになって、頭の中が真っ白になった。

コウダイって名前には全く聞き覚えもないのに、相手がわたしの名前を知ってるって事実に、何も考えられなくなった。


「…おい、調子にのんじゃねえぞ」

聞き慣れた低い声が響いて、「コウダイ」って人の首を、筋肉の筋が見える腕が締め付けるのが見えて、ようやく、ひゅーっと細く息を吐き出すことができた。


とたんに、心臓がばくばくと、音を立て始める。深呼吸をしつつ、壁に張り付く。

この得体の知れない人から、できるだけ距離を置きたい。

まだドアが閉められない位置に立ったままの祥くんの背中側に隠れると、ようやく少し落ち着いた。


何者だ、この人!「小動物みたい。かわいー」

「コウダイ」という奇妙な生き物は、無邪気に見えるけれど、わたしの中のアンテナが「警戒すべし」と訴えてくるから、絶対にここから離れるもんか、と祥くんのニットを掴んでみる。

「おら、早く入れ。入らねえならさっさと帰れよ」

腕を離したかと思えば、祥くんは、容赦なく「コウダイ」の腰を靴で蹴っている。

もしかしたら、とても親しい友達だったのかも。「コウダイ」は、玄関に転がった。

「おまえなぁ、今、本気で蹴っただろ!女に冷たい祥生が、女の子を家に何日も泊めてるって聞いてびっくりしてたんだ。その子に会えて、俺、嬉しいだけだから!」

屈託なく、祥くんの横からこちらを覗き込んでにこにこ笑う「コウダイ」の言葉に、思わず、掴んでいた祥くんの服をぱっと離していた。


「…オンナニツメタイ?」

なんか、聞き捨てならないフレーズが含まれていた気がして、再び硬直してしまう。

「てめえ、マジで帰れ。二度と来るな」

「おわっ!うそ、何かまずかった?」

幸くんは、そんなふうに、初回だけでなく毎回、騒々しくやってきた。
結論から言えば、祥くんから見た幸くんは、友達に限りなく近い、部下という立場にある人で、年齢は28歳。

同じ仕事をしているせいか、パソコンのモニターが何台も並ぶ、祥くんの仕事用の部屋に二人が背中を並べて仕事をしている姿を見ると、雰囲気だけはよく似ていて、不思議な感じがした。

ここ数日は、仕事が詰まってるらしく、毎晩ふたりで連れだって帰ってくる。夕食や入浴の合間に、仕事部屋であれこれ相談しあってる彼らは、まさに同士という感じがする。

たぶん、肩書を見れば部下ではあるけれど、祥くんにとっての幸くんは、共同経営者に近い存在なんじゃないかな。


子どもの頃は、どこか近寄りがたい空気を纏っていた祥くんだけど、幸くんのように、それをものともせずに付き合ってくれる人ができたんだな、ってことを知って、わたしは自分のことのように嬉しい。


ふたりの後姿を見ながら、邪魔をしないように、そっと、紅茶とクッキーを乗せたトレイを、入口の傍のスツールに置いた。


「海空ちゃーン!」

ほとんど音を立てなかったはずなのに、意外と敏感なのか、幸くんがこちらを振り返ってにこにこしている。

彼の大きな声に、祥くんもはあ、とため息をついてこちらを見る。ふたりの集中力が途切れてしまったみたい。


「ご、ごめんなさい。疲れてないかと思って」

ほとんど家にいない母親と暮らしたのが、自分以外の人間と過ごした最後の記憶だから、こんなふうに生活の中に他者がいる環境に、慣れていない。

うまく気を遣うことができない。


「疲れた!すっげー疲れたとこ!!祥生、まじでうめーよ、クッキー食ってみろ」

ほんと、騒々しいうえに落ち着きがない人だ。しゃべりながら、クッキーを一枚食べて、お茶を飲みつつ、別の一枚を祥くんの口に無理矢理押し込んでる。

慣れることができれば、幸くんは悪気のない、根はいい人なんだと思う。


…慣れることが、できれば。

「え、なに、海空ちゃんの手作り!?」

まだわたしは一言もしゃべってないのに、そう言いながら詰めよってきて、こちらの返事も待たない。


「ありがとう!!」

って、逃げる間もなく両手をがしっと掴まれるから。
「わあ!!」

毎度のことながら、かわいげのない悲鳴が、わたしの口から飛び出す。

…この、過剰なスキンシップがなければ、もうちょっと幸くんにも気を許そうなんだけど。なかなか、この近すぎる距離感に慣れることができない。


「気安く触んな」って言いながら、祥くんが、幸くんの首根っこを掴んで引きはがしてくれる。

「ええ!?まだ握手も駄目?もしかして、時間が解決しないってことは、俺自身が駄目ってこと?」

「早く気付けよ」

祥くんの低い声だけじゃなくて、「そうかも」って小さく呟いたわたしの声も拾ったのか、「ええええ!?」と、大げさな声を上げる幸くん。泣く真似をしながら、祥くんの肩に腕を絡めてる。

「暑苦しい」って慣れた様子でその腕を振りほどく祥くんと、ドアのところで硬直したままのわたしとを、かわるがわる見た幸くんは、なぜか嬉しそうにこう言った。


「どいつもこいつもシャイだな」


…ここ、日本だよね?

「ごめんね、休暇中に」

受話器から聞こえる理央さんの声が、懐かしく感じる。もう会社に行かなくなってから、2週間ほどが過ぎている。

「いえ、わたしの方こそ」

心底、申し訳ないと思う。「営業」の仕事が廃業になった上、「事務」の仕事も、休業中。


「今ね、あの早川って人が、海空ちゃんを訪ねてきてる」


…おつむの方も、休業しそうになる。

「会いたくないなら、電話がつながらなかったって言うよ」

どう、なった、だろう、彼女は。

最後に、コーヒーショップで話したきりの、早川さんの青白い顔を思い出す。


「行き、行き、ます」


考える前に、言葉がこぼれて、電話に吸い込まれていったみたいだった。

顔色、良くなったみたい。

最初に頭に浮かんだことは、それだけだった。電車の中で、あれやこれや悶々と考えを連ねていたはずなのに、早川さんと目が合ったときに、全部消えた。

「お久しぶりです。すみません、突然」

あ、このきっぱりした話し方だった、この声で、「ずっと、玲音くんのことが好きだった」って、この人は言ったんだ。胸に、酸っぱいものがさっと広がっていく。


「いえ」と首を横に振って、近くの椅子に腰かけるのがやっとのことだった。妊婦さんより先に座るって、どうなんだろう、わたし。

「あなたには、お話しする義務があると思って」

そう言われて、わずかに緊張する。早川さんだって、そうは見えなくても、緊張してるんだと思う。前に話をした時とは違って、敬語だし。


「あたし、子どもを産むことにしました。

だから、あなたに言われたとおり、玲音くんにも、彼の子を妊娠したってことを打ち明けました」


…ああ、そうだった。たしかに、わたしはそう言った。
気が動転して、彼女と最後に会った時の記憶が少し、曖昧になっていたみたいだ。

考えすぎて、ところどころ、記憶が擦り切れたのかな。


あの、産婦人科からの帰り道に、立ち寄ったコーヒーショップで。

すっかり話し終わった彼女を前に、わたしはどのくらいの時間、沈黙していたのだろう。

ひどい頭痛に苦しみながら、なんとか理解したのは、玲音さんは、本当に、もうわたしと会ってくれないんだろうなってこと。


この、大切にゆっくりと、胸の中で育てていた恋が、いつの間にか終わってたってことを、本当に自覚したのだ。


ただ…。

早川さんのお腹に、玲音さんの赤ちゃんがいる。

そのことを、本人である早川さん以外で、わたしだけが知っている。

たぶん、生真面目な性格の早川さんは、わたしの存在を無視して、玲音さんにその事実を打ち明けることはできなかったんだと思う。父親である玲音さんより先に、わたしに知らせるなんて、そういうことだとしか思えなかった。


「必ず、玲音さんに、赤ちゃんのことを相談してください」

心の中のぐちゃぐちゃな有様が、嘘みたいに、毅然とした声が出せて、自分が一番驚いていたことを、思い出す。
「わたしに悪いと思うなら、必ず」


本当のところ、早川さんの「ごめんなさい」の気持ちが、どれほど深いものなのか、なんて、わたしにはわからない。「後悔はひとつもない」とだって、言ってたし。

だけど、罪悪感がゼロなはずはない。

そこを、わざと利用したのだ、わたしは。


最後の最後にでも、玲音さんのことを考えた。


わたしに「もう会えない」と言った日の、玲音さんの辛そうな顔が、今でも頭から消え去ってくれない。

きっと彼は、本当のことを知りたいはずだから、と。
彼の苦しみの半分くらいは、真実がどこにあるかわからないことから来ているに違いないから、と。

状況がわかれば、彼だって、次にとるべき道を選ぶことができる。自惚れでなければだけど、わたしへの未練があれば、それも断ち切れる。


あのときのわたしは、そう考えて、早川さんの行動に、時限装置を仕掛けておいたような気分でいたけれど。もちろんそれは、爆弾じゃなくて、鎮痛剤、みたいなもののつもり。


「玲音さん、笑えるようになりましたか」

早川さんは、一瞬だけ、不思議そうな顔をしたけれど、少し考えてから、答えてくれた。

「まだ、あまり笑わないですけど。ときどきは、大山くんに、無理矢理笑わされてる…、かな」

なんだか、目に浮かぶ。あのお店での、彼らの様子が。

あまり笑わないと言う玲音さん。今でも泣いてるわたし。



「玲音くんと結婚するかどうか、聞かないんですか」


早川さんが、わたしの表情を見極めるみたいな目で、見つめていた。もちろん、そのことは、全く気にならなかった訳じゃなくて、考えすぎるくらいに考えた。


「どうでもいい」


でも、今は、どうでもよくなった。


「え?」

意外だったのか、早川さんが首をかしげた。
「彼がわたしと結婚できないなら。

他の誰かと結婚してもしなくても、どうでもいいんです」


気が付いたら、なぜか、わたしじゃなくて、早川さんが泣いていた。


「あたしは玲音くんとは結婚できません。

子どもを理由に、籍を入れることはできても、玲音くんのあたしへの気持ちは、思いやりでしかないから。ひとりでも、大事に育てるつもりです」


このことを、伝えたかったのだろう。いろいろ考えて、結論を出したのだろう。


初めて涙を見せた早川さんを前に、わたしが思い浮かべていたのは、玲音さんの笑顔だけだった。


新しい恋でも、生まれてくる赤ちゃんでも、時間でもいい。何かが、少しでも早く、彼の笑顔を取り戻してくれますように。

今となってはもう、何の役にも立てなくなったわたしは、とうとう、祈ることしかできなくなった。
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