結婚したいから!
年が明けてから、3人で会う回数が、少しずつ減ってきた気がする。
誰かが忙しいって言ってるわけでもないし、しばらく会えないって言ってくるわけでもないのだけれど。わたしが元気になってきたことと、紗彩の予定が詰まっていることが理由じゃないかって、勝手に思っている。
わたしが大失恋してるから、紗彩は自分からは、彼氏の話をしなくなった。でも、別れたとは聞かないから、わたしたちと会う合間には、連絡を取り合ったり、会ったりしているはずだと思う。
だから、あまり会えなくなってきたってことは、紗彩が彼氏と会う回数が増えたんじゃないかなって、推測してる。
「なんか、紗彩の部屋に入るの、久しぶり」
ちょっと胸が痛いけど、そう言えば、祥くんの家を出た足で、来て以来だった。
「だね。結城と3人だったら、海空の家が間にあって、便利だしね」
「うん」
彼氏がいるからって、一緒に撮った写真を飾ったり、彼専用の歯ブラシを用意するタイプではないので、紗彩の部屋は、いつ来ても彼女の物しかない。
「この頃、彼とよく会うの?」
きっとそうなんだろう、と思って、何気なく聞いたら、とたんに紗彩の表情が滑り落ちて消えた。しまった、失言だったらしい。
「あいつの話はしないで」
…また、喧嘩したのか。何年も片思いしたくらい好きなくせに、どうして喧嘩ばかりしてるんだろう、紗彩って。
結婚したくないとは言わないくせに、彼から結婚しようって言われても断り続けてるみたいだし。
「また、髪形変えたんだ?この頃、男が変わるたびに、雰囲気変わるね」
「そ、そうかな」
わたしの色素が薄くなった髪を一房取って、さらさら落として遊ぶ紗彩は、特にわたしに意地悪を言おうって顔でもないけれど。
少し、胸がずきっとする。わたしって、主体性がないのかな。
「海空のうなじって、色っぽいんだね」
「おおお、おかしなこと言うね」
どどどど、どうしたんだ、紗彩。
「ね?結城」
「は、うん?」
紗彩がわたしに似つかわしくない形容詞を使うので、わたしだけじゃなくてコーイチも戸惑っているらしい。
わたしが、室内であるにも関わらず、おたおたと首にマフラーを巻き始めたので、紗彩は苦笑いしている。
「何その返事」
「いや、まあ、どんな頭してても、ミクはミクだろ」
あ、今の、ちょっと嬉しかった。そっか。わたしはわたしか。
紗彩は、すでに戦線離脱したわたしを放っておいて、いじめ甲斐のあるコーイチへと、矛先を向けた。
「ねえ、結城って、女顔だよね」
「うるさい」
「それこそ、変な色気があるよね」
「うるさい」
「女装したこともあるよね」
「…うるさい」
「間があったよね」
「うるさいな」
コーイチの顔が、どんどん不機嫌になっていくから、紗彩もからかい甲斐があるだろう。
「ねえ、メイクさせてよ」
「うるさ…、はあ?」
「結城の顔って、メイクが上手くできそうな気がするんだよね、あたし」
「そんな気はしないな、俺は」
「綺麗にしてあげる」
「いらない」
「キャビンアテンダントの友達との合コン、セッティングしてあげようと思ってたのにな…」
「いいよ、少しだけなら」
あっさり意見を翻したコーイチに失笑。嬉々として、ドレッサーまでコーイチの腕を引いて行く紗彩。
彼女の営業先の多くは化粧品メーカーや、その販売店らしいから、そこで自分用に商品を購入することや、サンプルをもらうこともよくあるらしい。
営業の仕事が軌道に乗ってから、紗彩はこのドレッサーを買ったのだけれど、どの引き出しもメイクグッズでいっぱいだ。「ねえ、いつ女装したことがあるの?」
一心不乱にコーイチの顔にあれこれ塗りたくっている紗彩を見ながら、そっと尋ねてみると、コーイチは明らかに嫌な顔をした。
「してない、っていう答えは期待してないわけ?」
「だって、コーイチってわかりやすい。たぶん、無理矢理させられたんでしょ」
目に浮かぶもの。この嫌そうな顔をしながらスカートでも履かされてるところ。想像しただけでも笑える。
はあ、ってコーイチは諦めたように、ため息をついた。
「高校の文化祭で。うちのクラスの出し物は仮装大会のはずだったのに、俺だけ女装させられて、男装したボーイッシュな女の子とカップルで、舞台に上がらされた」
ひー、考えただけでも、おかしい。
でもきっと、クラスメイトも、コーイチだから、そんなことできたんだろうな。本気では怒らなさそう。渋々だけど、付き合ってくれそう。その渋々、ってところが余計笑いを誘うのに。
「目に浮かぶね」
紗彩も、コーイチの顔に手を加えつつ、ぽつりと呟いた。
「でも、写真で見たいな。卒業アルバムとかに載ってないの?」
「……載って、ない」
そのわかりやすい長い沈黙は、何。
「なんだか、アルバムを、猛烈に見たくなったなぁ。今度コーイチのおうちで捜査しよう。ね、紗彩」
「いいね」
「の、載ってねーってば!」
「じゃあ、見せてね」
「……」
ほんと、コーイチって、からかい甲斐がある!
「うーん、一通りできたんだけどなぁ」
なんだか納得いかない様子で、紗彩がコーイチの顔を眺めている。
両頬を挟んで、思い切りわたしのいる方向にひねるから、「いって!」ってコーイチが抗議してるのに、それすら聞いてもいない様子。
「何、どうしたの?」
「見て、海空。なんか、……けばけばしいっていうか、毒々しい」
「おい!人の顔に、無理矢理化粧しておいてそんな感想かよ!」
「あは。なんか、色気が出過ぎるね」
「そうそう。塗れば塗るほど漏れ出してる感じで、あたしもどうしたらいいのか。妖しい雰囲気が出ちゃうんだよね」
「ふふふふ。花魁、みたいなイメージだなぁ」
「うん、その表現はぴったりだ」
確かに、妖艶な美女って言う感じ。しっかり引いたアイラインとか、赤が強めのグロスとか、確かに顔立ちにはよく似合いそうなのに、なんとなく、もっと綺麗になりそうなのにな、っていう残念な気持ちが残る。
「ちょっと、わたしもやってみる」
「いや、もう勘弁してくれ」
「キャビンアテンダントとの合コン取りやめてって、紗彩に言うよ?」
「今度は脅しかよ!」
どうせ文句は言えないだろう、コーイチは早く結婚相手を見つけたいんだし。
コーイチの返事も聞かずに、紗彩の施したメイクをふき取った。諦めたように、膨れた顔のままで、コーイチは黙っている。
濃いメイクを落としてみると、何にもしていない方が、中性的で綺麗。不思議だなあ。そういう顔立ちの人っているんだ。羨ましい!
ピンクさんなら、どうするかな、って考えながら、紗彩のドレッサーからとりあえずカラーレスのファンデーションを借りる。さらさらでなめらかな素肌だから、こってり塗らなくてもよさそう。
「へえ。ブラシって気持ちいいな」
嫌々メイクされてたくせに、ちょっと楽しそうな顔になるコーイチって、ほんと単純。
「でしょ。わたしもメイクはブラシでする派なんだぁ。おすすめだよ」
「…女になったらやってみる」
「女になる予定もあるんだ?」
「あるはずねーだろ!俺の気遣いを無駄にするな」
「変な気遣い。あ、目つぶって?」
「うん」
コーイチの瞳が見えなくなると、じっくりと彼の顔を見ることができた。
アイシャドウも、あんまりいらないかも。ブラウン系で陰影をつけるだけ。アイラインはやめて、目の際に濃いブラウンのシャドウを薄く引いた。…なんか、目が離せない。目を閉じたままで完全に無防備なコーイチの顔が、かわいくて。
「もう、目を開けてもいい?」
「あ、うん。ごめん、見惚れてた」
「はあ?俺に?」
「……いや、自分のメイクの手腕に」
「ミクはバカだなー。本気でそう思ってる?そんなにメイク上手いイメージないけど」
バカ。ほんとバカ。うっかり見惚れてたなんて本音を漏らしてしまった。
どうせ漏らしたなら正直にかわいい、とか言えばよかったのに、なんで誤魔化しちゃったんだろう。
なんか変なの、わたし。
コーイチは、いつもよりさらに女性的になった顔で、屈託なく笑ってるだけだ。
ん?それにしても、今、暗にわたしがメイク下手だって言ったな、コーイチめ。
「うーん、もう!今は、上手く出来そうなの」
ピンクベージュのチークを探して、今度はチーク用のブラシで、コーイチの頬を撫でる。
うっとりしたみたいに、少し目を伏せる表情は、あまり見慣れないものだ。どきりとしたことにも、気がつかなかったことにする。
「はい、後はこのグロスを唇の真ん中だけに塗って。それで完成」
ほとんど色の目立たないピンクのグロスを、コーイチに押し付ける。
「自分で塗るの!?何の罰ゲームだよ!!」
コーイチが嫌がるから、紗彩は爆笑している。
いや、コーイチをいじめるつもりじゃなかったんだけど。面白いから、まあいっか。
手伝うそぶりが全くないわたしを前に、諦めてコーイチはグロスを塗ったけど、塗りすぎて唇がどろどろにテカってて、今度は紗彩だけじゃなくて私まで大笑いした。
「それ、絶対、埃とかくっつきそうだよね!なんか、相当、脂っこいもの食べたみたいにも見えるよね!」
紗彩にそんなことを言われても、膨れたままどうしたらいいのかわからない様子のコーイチ。
「しょうがないなぁ」
見かねて、唇を拭ってやる。ちょっと開いた唇の真ん中に、量を加減しながらグロスを載せる。
「…なんか、変な気分になっちゃった」
「ええ!?」
心の中を言い当てられたかと思ってどっきりしたけど、そう呟いた紗彩はわたしだけじゃなくて、わたしとコーイチの顔を交互に見ている。
そういえば、コーイチの「え?」って声も聞こえた。
「あんたたちを見てると、ドキドキした」
「はあ!?」
紗彩が重ねてそう言うと、今度こそがっつり、コーイチと声がかぶった。
わたしは、なんで、って、言えなかった。何のことを言ってるの、とも。
だって、わたしたちは3人とも、ずいぶん前のことだけど、わたしとコーイチがお見合いして、デートの後でキスしたってことを知ってる。
今では大事な友達だけど、その記憶まで完全に消えたわけじゃない。それぞれが、そのことでも、思い出してるんじゃないかって、思う。
「ああ、でも、こっちのメイクの方がいいね」
わたしたちに爆弾を投げておきながら、あっさり自分だけは気持ちを切り替えたらしい。
そう言って、紗彩は至近距離で、しげしげとコーイチの顔を眺める。遠慮なく顎を掴んで上向かせて観察しているその様子を見たって、わたしはドキッとはしない。
「じゃあ、記念撮影、っと…」
「おい!無理!!それだけは無理!!もう合コンしなくてもいいから!!」
デジカメか携帯電話か、何らかの道具をごそごそ探している紗彩のシャツを、必死でコーイチが引っ張っているから、やっと笑えた。
わたしは、確かに、解放されたのだと思う。ピンクさんの言う通り。
でもそれは、長い髪の毛から、だけではない。大失恋から、だけでもない。
恋に寄りかかって、結婚を夢見てばかりの自分から。祥くんを失って受けた、深い痛手は、これまでにないわたしを形成する一助にもなっているらしい。
ずっと、結婚したい!って言い続けていたわたしが、結婚どころか恋も望まず、こうして過ごしているなんて。
この、思ってもみなかった、自由で気楽な毎日が、わたしは嫌じゃない。いや、嫌じゃないってどころか、好きになりつつある。
誰かが忙しいって言ってるわけでもないし、しばらく会えないって言ってくるわけでもないのだけれど。わたしが元気になってきたことと、紗彩の予定が詰まっていることが理由じゃないかって、勝手に思っている。
わたしが大失恋してるから、紗彩は自分からは、彼氏の話をしなくなった。でも、別れたとは聞かないから、わたしたちと会う合間には、連絡を取り合ったり、会ったりしているはずだと思う。
だから、あまり会えなくなってきたってことは、紗彩が彼氏と会う回数が増えたんじゃないかなって、推測してる。
「なんか、紗彩の部屋に入るの、久しぶり」
ちょっと胸が痛いけど、そう言えば、祥くんの家を出た足で、来て以来だった。
「だね。結城と3人だったら、海空の家が間にあって、便利だしね」
「うん」
彼氏がいるからって、一緒に撮った写真を飾ったり、彼専用の歯ブラシを用意するタイプではないので、紗彩の部屋は、いつ来ても彼女の物しかない。
「この頃、彼とよく会うの?」
きっとそうなんだろう、と思って、何気なく聞いたら、とたんに紗彩の表情が滑り落ちて消えた。しまった、失言だったらしい。
「あいつの話はしないで」
…また、喧嘩したのか。何年も片思いしたくらい好きなくせに、どうして喧嘩ばかりしてるんだろう、紗彩って。
結婚したくないとは言わないくせに、彼から結婚しようって言われても断り続けてるみたいだし。
「また、髪形変えたんだ?この頃、男が変わるたびに、雰囲気変わるね」
「そ、そうかな」
わたしの色素が薄くなった髪を一房取って、さらさら落として遊ぶ紗彩は、特にわたしに意地悪を言おうって顔でもないけれど。
少し、胸がずきっとする。わたしって、主体性がないのかな。
「海空のうなじって、色っぽいんだね」
「おおお、おかしなこと言うね」
どどどど、どうしたんだ、紗彩。
「ね?結城」
「は、うん?」
紗彩がわたしに似つかわしくない形容詞を使うので、わたしだけじゃなくてコーイチも戸惑っているらしい。
わたしが、室内であるにも関わらず、おたおたと首にマフラーを巻き始めたので、紗彩は苦笑いしている。
「何その返事」
「いや、まあ、どんな頭してても、ミクはミクだろ」
あ、今の、ちょっと嬉しかった。そっか。わたしはわたしか。
紗彩は、すでに戦線離脱したわたしを放っておいて、いじめ甲斐のあるコーイチへと、矛先を向けた。
「ねえ、結城って、女顔だよね」
「うるさい」
「それこそ、変な色気があるよね」
「うるさい」
「女装したこともあるよね」
「…うるさい」
「間があったよね」
「うるさいな」
コーイチの顔が、どんどん不機嫌になっていくから、紗彩もからかい甲斐があるだろう。
「ねえ、メイクさせてよ」
「うるさ…、はあ?」
「結城の顔って、メイクが上手くできそうな気がするんだよね、あたし」
「そんな気はしないな、俺は」
「綺麗にしてあげる」
「いらない」
「キャビンアテンダントの友達との合コン、セッティングしてあげようと思ってたのにな…」
「いいよ、少しだけなら」
あっさり意見を翻したコーイチに失笑。嬉々として、ドレッサーまでコーイチの腕を引いて行く紗彩。
彼女の営業先の多くは化粧品メーカーや、その販売店らしいから、そこで自分用に商品を購入することや、サンプルをもらうこともよくあるらしい。
営業の仕事が軌道に乗ってから、紗彩はこのドレッサーを買ったのだけれど、どの引き出しもメイクグッズでいっぱいだ。「ねえ、いつ女装したことがあるの?」
一心不乱にコーイチの顔にあれこれ塗りたくっている紗彩を見ながら、そっと尋ねてみると、コーイチは明らかに嫌な顔をした。
「してない、っていう答えは期待してないわけ?」
「だって、コーイチってわかりやすい。たぶん、無理矢理させられたんでしょ」
目に浮かぶもの。この嫌そうな顔をしながらスカートでも履かされてるところ。想像しただけでも笑える。
はあ、ってコーイチは諦めたように、ため息をついた。
「高校の文化祭で。うちのクラスの出し物は仮装大会のはずだったのに、俺だけ女装させられて、男装したボーイッシュな女の子とカップルで、舞台に上がらされた」
ひー、考えただけでも、おかしい。
でもきっと、クラスメイトも、コーイチだから、そんなことできたんだろうな。本気では怒らなさそう。渋々だけど、付き合ってくれそう。その渋々、ってところが余計笑いを誘うのに。
「目に浮かぶね」
紗彩も、コーイチの顔に手を加えつつ、ぽつりと呟いた。
「でも、写真で見たいな。卒業アルバムとかに載ってないの?」
「……載って、ない」
そのわかりやすい長い沈黙は、何。
「なんだか、アルバムを、猛烈に見たくなったなぁ。今度コーイチのおうちで捜査しよう。ね、紗彩」
「いいね」
「の、載ってねーってば!」
「じゃあ、見せてね」
「……」
ほんと、コーイチって、からかい甲斐がある!
「うーん、一通りできたんだけどなぁ」
なんだか納得いかない様子で、紗彩がコーイチの顔を眺めている。
両頬を挟んで、思い切りわたしのいる方向にひねるから、「いって!」ってコーイチが抗議してるのに、それすら聞いてもいない様子。
「何、どうしたの?」
「見て、海空。なんか、……けばけばしいっていうか、毒々しい」
「おい!人の顔に、無理矢理化粧しておいてそんな感想かよ!」
「あは。なんか、色気が出過ぎるね」
「そうそう。塗れば塗るほど漏れ出してる感じで、あたしもどうしたらいいのか。妖しい雰囲気が出ちゃうんだよね」
「ふふふふ。花魁、みたいなイメージだなぁ」
「うん、その表現はぴったりだ」
確かに、妖艶な美女って言う感じ。しっかり引いたアイラインとか、赤が強めのグロスとか、確かに顔立ちにはよく似合いそうなのに、なんとなく、もっと綺麗になりそうなのにな、っていう残念な気持ちが残る。
「ちょっと、わたしもやってみる」
「いや、もう勘弁してくれ」
「キャビンアテンダントとの合コン取りやめてって、紗彩に言うよ?」
「今度は脅しかよ!」
どうせ文句は言えないだろう、コーイチは早く結婚相手を見つけたいんだし。
コーイチの返事も聞かずに、紗彩の施したメイクをふき取った。諦めたように、膨れた顔のままで、コーイチは黙っている。
濃いメイクを落としてみると、何にもしていない方が、中性的で綺麗。不思議だなあ。そういう顔立ちの人っているんだ。羨ましい!
ピンクさんなら、どうするかな、って考えながら、紗彩のドレッサーからとりあえずカラーレスのファンデーションを借りる。さらさらでなめらかな素肌だから、こってり塗らなくてもよさそう。
「へえ。ブラシって気持ちいいな」
嫌々メイクされてたくせに、ちょっと楽しそうな顔になるコーイチって、ほんと単純。
「でしょ。わたしもメイクはブラシでする派なんだぁ。おすすめだよ」
「…女になったらやってみる」
「女になる予定もあるんだ?」
「あるはずねーだろ!俺の気遣いを無駄にするな」
「変な気遣い。あ、目つぶって?」
「うん」
コーイチの瞳が見えなくなると、じっくりと彼の顔を見ることができた。
アイシャドウも、あんまりいらないかも。ブラウン系で陰影をつけるだけ。アイラインはやめて、目の際に濃いブラウンのシャドウを薄く引いた。…なんか、目が離せない。目を閉じたままで完全に無防備なコーイチの顔が、かわいくて。
「もう、目を開けてもいい?」
「あ、うん。ごめん、見惚れてた」
「はあ?俺に?」
「……いや、自分のメイクの手腕に」
「ミクはバカだなー。本気でそう思ってる?そんなにメイク上手いイメージないけど」
バカ。ほんとバカ。うっかり見惚れてたなんて本音を漏らしてしまった。
どうせ漏らしたなら正直にかわいい、とか言えばよかったのに、なんで誤魔化しちゃったんだろう。
なんか変なの、わたし。
コーイチは、いつもよりさらに女性的になった顔で、屈託なく笑ってるだけだ。
ん?それにしても、今、暗にわたしがメイク下手だって言ったな、コーイチめ。
「うーん、もう!今は、上手く出来そうなの」
ピンクベージュのチークを探して、今度はチーク用のブラシで、コーイチの頬を撫でる。
うっとりしたみたいに、少し目を伏せる表情は、あまり見慣れないものだ。どきりとしたことにも、気がつかなかったことにする。
「はい、後はこのグロスを唇の真ん中だけに塗って。それで完成」
ほとんど色の目立たないピンクのグロスを、コーイチに押し付ける。
「自分で塗るの!?何の罰ゲームだよ!!」
コーイチが嫌がるから、紗彩は爆笑している。
いや、コーイチをいじめるつもりじゃなかったんだけど。面白いから、まあいっか。
手伝うそぶりが全くないわたしを前に、諦めてコーイチはグロスを塗ったけど、塗りすぎて唇がどろどろにテカってて、今度は紗彩だけじゃなくて私まで大笑いした。
「それ、絶対、埃とかくっつきそうだよね!なんか、相当、脂っこいもの食べたみたいにも見えるよね!」
紗彩にそんなことを言われても、膨れたままどうしたらいいのかわからない様子のコーイチ。
「しょうがないなぁ」
見かねて、唇を拭ってやる。ちょっと開いた唇の真ん中に、量を加減しながらグロスを載せる。
「…なんか、変な気分になっちゃった」
「ええ!?」
心の中を言い当てられたかと思ってどっきりしたけど、そう呟いた紗彩はわたしだけじゃなくて、わたしとコーイチの顔を交互に見ている。
そういえば、コーイチの「え?」って声も聞こえた。
「あんたたちを見てると、ドキドキした」
「はあ!?」
紗彩が重ねてそう言うと、今度こそがっつり、コーイチと声がかぶった。
わたしは、なんで、って、言えなかった。何のことを言ってるの、とも。
だって、わたしたちは3人とも、ずいぶん前のことだけど、わたしとコーイチがお見合いして、デートの後でキスしたってことを知ってる。
今では大事な友達だけど、その記憶まで完全に消えたわけじゃない。それぞれが、そのことでも、思い出してるんじゃないかって、思う。
「ああ、でも、こっちのメイクの方がいいね」
わたしたちに爆弾を投げておきながら、あっさり自分だけは気持ちを切り替えたらしい。
そう言って、紗彩は至近距離で、しげしげとコーイチの顔を眺める。遠慮なく顎を掴んで上向かせて観察しているその様子を見たって、わたしはドキッとはしない。
「じゃあ、記念撮影、っと…」
「おい!無理!!それだけは無理!!もう合コンしなくてもいいから!!」
デジカメか携帯電話か、何らかの道具をごそごそ探している紗彩のシャツを、必死でコーイチが引っ張っているから、やっと笑えた。
わたしは、確かに、解放されたのだと思う。ピンクさんの言う通り。
でもそれは、長い髪の毛から、だけではない。大失恋から、だけでもない。
恋に寄りかかって、結婚を夢見てばかりの自分から。祥くんを失って受けた、深い痛手は、これまでにないわたしを形成する一助にもなっているらしい。
ずっと、結婚したい!って言い続けていたわたしが、結婚どころか恋も望まず、こうして過ごしているなんて。
この、思ってもみなかった、自由で気楽な毎日が、わたしは嫌じゃない。いや、嫌じゃないってどころか、好きになりつつある。