愛の花ひらり
「おい……社長秘書ってのは、会社関係の奴らとも接する機会が多いんだぞ? 営業みたいな一定の距離感のある礼儀じゃなく、ハグとかもあるしさ……」
 敦が要の前に屈み込んで言うと、彼女はグッと涙で汚れた顔を上げて、目の前の敦の頬を思い切り引っ叩いた。
「それぐらい知っています! だから営業部を希望したんです! でも、社長秘書になったからには、それくらい我慢します!」
 やはり肝の据わった女だと思いつつも、先程からの自分に対する要の態度に腹が立った敦は、要の頬を両手で強く引っ張った。
「お、お前……払い除けた上に引っ叩くたぁ、どういう神経をしてるんだよ!」
「いやっ! 触らないで! あんたが急に変な事をしてきたり言ったりしたりするからでしょっ!」
「な、何だとぉぉ! 社長に向かってあんただとっ!? 俺にはちゃんと名前があるんだよっ! それくらい知ってんだろ!?」
「し、知らないわよっ! あんたの名前なんか、社長という肩書しか知らないわよぉ!」
「なっ! お、お前は会社のパンフレットのどこを見てたんだよ!?」
「文章しか見てないわよっ!」
「な、なな……なにぃぃ!」
 腹立ちはあるが、社長秘書を辞めさせようとは思わない敦も、思い切り要に突っ掛っていく。
「ぎゃあぁぁっ!」
「お、お前! 俺の腕を噛むな!」
 社長室ではどったんばったんと大きな音が響き渡る。
 秘書室に戻って、お茶を啜っていた優子は、一瞬驚きの表情で社長室に続くドアを見つめたが、再び湯呑の方に視線を向けて、要に見せていた優しい微笑みを浮かべた。
「これから先、楽しそう……」
 その後、傷だらけの敦が、スケジュール調整の為に入室してきた優子に短い言葉を投げ付けた。
「当麻要、合格……」
「当麻さんを社長秘書にと選んだ本当の理由はともかく、お気に召したという事でよろしいですね?」
 優子が予め用意をしていた救急箱を敦に手渡す。
 敦はその救急箱のふたをパカッと開けた後、不気味な笑みを零した。
「お気に召したも何も……躾のし甲斐があるぜ……」
「もう……最悪……あの男が私の上司になるだなんて……」
 自分のボスにもなる社長との喧嘩をひと段落終えた要は、お手洗いに逃げ込んでいたが、暫くしてその場所に駆け付けて来た優子がにっこりと微笑んだ。
「さっぱりしたら、もう一度社長の所に行って下さいね」
 また? 今度は何よ――
 要はうんざりしながらフェイスタオルで顔を拭くと、行くのを拒否しているかのような重い足を引きずりながら、再びあの社長室へと向かうのであった――。

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