描かれた夏風
ココロの狭間

side 智

 もう何も失いたくない。

 目を閉じて、耳をふさいで、必死で逃げようとする。

 それなのに。

 その絵を初めて見た時の感動は、心の奥に鮮明なままで残っているのだ。

 ――西口友絵。

 彼女の名前を初めて知ったのは、散った桜が地面を桃に染める頃だった。

 日直の資料整理をさせられて疲れきった瞳に、優しい色が飛び込んでくる。

「先生、これは?」

「ああ……芸術科のね、春の優秀賞の最終候補作品だよ。触っちゃ駄目だよ」

 整然と並んでいた絵画はどれも、同じ高校生が描いたものだとは思えない出来だ。

 しかしその中でひときわ目立つのが、日向で眠る猫の絵だった。

 優しい視線を間近に感じられる色彩。

 線は安定しきっていないが、そこが逆に魅力に思える。

 絵の下に記入された作者の名前を、頭の中に刻み込んだ。

「――でね。友絵ちゃんがね……」

 お世話になっている家に帰ると、真っ先に居間に入る。

 つけっぱなしのテレビと向かい合って座るのは、同い年のイトコだ。

 確か彼女の作品もさっき見た中にあった。

 技術力だけで見れば、文句なしの一番ではないだろうか。
< 58 / 134 >

この作品をシェア

pagetop