愛を教えて ―背徳の秘書―
香織は少し笑って、自分の馬鹿さ加減を思い出す。

『死んでやる』なんて叫んでまで、ひとりの男性に執着する自分がいるとは思わなかった。


(そりゃ、どんな男だって引くわよね)


そんな修羅場からたった半年……されど半年だ。

この銀行は彼が上司に頼んで、香織のために探してくれた勤務先だった。

派遣や契約ではなく正社員。勤務地も都内から横浜に移った。最初は心細かったが、今となれば心機一転、出直すことができてよかったと思っている。


銀行内で香織の評判はとくに目立つものではなかった。

ただ、これまでの勤務先が大企業ばかりなので、お高くとまっていると言われないよう、必要以上に気を使っている。


「あ、志賀さん。悪いんだけど、融資の席にコーヒーふたつお願い。あ、二番のほうね。一番は“例の人”だから」

「はい、わかりました」


“例の人”……その言葉に香織の胸はトクンと鳴った。



香織は三つのコーヒーをトレイに乗せ、一番の数字が書かれた融資相談室を小さくノックした。


「失礼いたします」


ドアを開け一礼して顔を上げた。

すると、グレーのスーツの背中が目に入る。

思ったとおり、そこに座っていたのは名刺の男性、瀬崎幸次郎だった。


「お待たせして申し訳ありません」

「いえ。押しかけているのはこちらですから。今日も無理なようです。もう失礼いたしますので、どうぞお気遣いなく」


銀行には法人の大株主がいて、その会社の系列銀行と呼ばれることが多い。その会社が大きければ大きいほど様々な問題が発生し、銀行の独断では応じることが困難な融資先もあった。

この瀬崎の会社もそういったケースに含まれる。

とはいえ、裏の事情を明かして断ることは体面上できない。結果、こうして何度も足を運んでくる瀬崎を、担当者不在という理由で追い返しているのだ。



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