愛を教えて ―背徳の秘書―
「お口に合うかわかりませんが、お時間がございましたら……。外はあいにくの雨ですし」


言いながら、香織はコーヒーを瀬崎の前に置いた。

彼はいったん立ち上がったが再び腰を下ろし、香織を見上げてにっこりと笑った。


「そうですね。いただきます」


瀬崎がこの銀行に足を運ぶようになり早三ヶ月――。

この瀬崎が秘書をしていた上司は社内の権力闘争に敗れ、大企業の取締役から地方の子会社に飛ばされたという。瀬崎はその上司から貿易会社を引き継いだようだった。

そういった事情から彼の貿易会社は新しいメインバンクを探している。

業績は決して悪くない。どこも喜んで引き受けそうなのに、その貿易会社を潰そうとする力が働いているのは明らかだ。

これほどまで無愛想なもてなしを受けながら、瀬崎は激することなく毎週のように訪れる。しかも、いつも穏やかな笑みを湛え、香織のような女性社員にも丁寧に会釈して挨拶を返してくれた。

当然、女性社員らの受けも上々だ。

しかし、彼女たちも薄情なもので、裏では「潰れそうな会社の男をゲットしてもねぇ」そんなふうに声を揃えて笑っていた。


香織自身は、しばらく恋愛から離れるつもりだった。

身体を許した途端、心まで許して相手に寄りかかってしまう。すぐに結婚を考え始め、かいがいしく世話をしてしまうのだ。見た目とのギャップに最初は男性も喜んでいるが、香織の結婚願望に気づくと引いていくのが実情だった。


――ひとりで生きていけるような一人前の女性になりたい。


香織が転職した日、努力目標にした言葉だ。

ところが、その誓いは瀬崎と会うごとに薄まっていく。

思わず、横目で左手の薬指を確認してしまうくらいに。どの指にも指輪はなく、その跡もなかったが……。

いつか尋ねたいと思いつつ、挨拶以上の会話には踏み込めない香織だった。



瀬崎に会釈して部屋を出る。そして、二番の部屋にコーヒーを運んでから給湯室に戻った。

結局、皆のコーヒーを淹れ終えるまで、だいぶ時間がかかってしまった。


「志賀さんてさ、バツイチなんだよね」

「キレイだし、仕事はできるし、性格も悪くないんだけど……。なんか壁があるよね?」


大きめのトレイを抱え事務フロアに近づくと、女性社員の口から香織の名前が聞こえた。

そこに男性社員も加わり、


「美人だけど、なんか怖いんだよなぁ。入社十日目には俺の好みのコーヒーを淹れてくれて……正直びびったよ。いつの間にって思った」

「笑顔も型が決まってる感じで、隙がないっていうかさ。近寄りがたいよなぁ」

「あっちも近寄って欲しくないんじゃない?」

「ひでぇ」


一斉に笑い声が上がる。


「お待たせしました」


会話が切れたタイミングを見計らい、香織は笑顔を作り輪の中に入っていった。



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