艶めきの標本箱
水槽の中

ここ数日の晴天のお陰で、海は穏やかな色をしていた。
まだ温かさを残す碧を溶かした岸近い部分には、白い波も少ない。
さっき売店のおばさんが、今日はサーファーも少ないねと言ったことを思い出した。


潮風に泳ぐ髪を押さえテラスの手摺に身体を預けて佇む私の後ろ姿を見つけると、何人かの子供達が私に声を掛けて通り過ぎて行く。
ネイビーのスモックにひよこ色の帽子を被って、声をあげながら走り回る子供達。
ラフな格好のお母さん達も日頃の忙しさから逃れてのんびりしている様子だった。
最近の遠足は殆どが自由行動で、水族館に着いた途端に皆が思い思いの水槽へと走って行ってしまった。
普段は仕事で忙しい親たちを一人占め出来る時間にしてあげたいというのが、園長の考えだった。
だから父兄が来ることが出来ない園児はお休みの子も多かった。


すっかり季節を変えた空は、淡い色で沢山の雲を浮かべていた。
天頂を見上げて目を細めたら。涙が滲んだ。
私は慌てて目尻を指で押さえて、何事もなかったフリをする。
左腕を捲りあげ腕時計に目をやる。
集合時間までには、まだあと1時間以上もあった。
白いベルトの下に浅く残る痕跡。
まだ胸が少し苦しくて、私は大きくため息をつく。






昨夜、あの人はいつもと同じように私を抱いた。
唇からうなじそして胸元へと舌を這わせ、その動きにあわせて私の乳房は大きく上下に動いた。
吐息が甘い声に変わる頃、あの人は私の腕を取り丁寧に指をひとつずつ口に含んでくれた。
そして、待ち焦がれていた痛み。
甘くきつく、あの人の歯が指に、手の甲に、腕にと与えられていく。
私の声は啼き声となり、そしてやがて意味も持たない甲高い音となった。
シーツの上でしばらくの間私を見失った後、気怠い身体を起こして私はあの人に告げた。






「今まで、ありがとうございました。」






きっと私は長い夢から醒めたような表情だったのだろうと、随分と遠くを見つめるように思い返す。
あの人は引きとめなかった。
私の思った通り、だった。

さよなら。


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