艶めきの標本箱


「せんせぇ、お願いがあるの。」






不意にカットソーの裾が引かれて、振り返ると私のクラスの子が抱きついてきた。
その小さな身体を受け止めながら、しゃがんでその子と同じ目線になる。
どうしたの?と尋ねると、彼女は首からぶら下げた札を私に差し出して見せた。
大きな文字でナンバーが入ったその札には、これから行われる水族館の探検ツアーの時間が入っていた。






「娘が、どうしても先生と一緒に行きたいって言うんです。
ご一緒して頂けませんか?」






その子の父親が少し遅れて私の前に辿り着くと、そう言った。
どうやら私の分も勝手に申し込んできてしまったらしい。
私はその札を手に目の前の小さな瞳を覗き込んだ。


一人一人の園児に感情を入れていたらこの仕事は出来ない。
だからあまり園児たちの家庭環境にも深くは興味を示さないようにしていた。
それでもやはり父子家庭であるこの家族のことは気にはなっていた。






「ねぇ、せんせぇ。一緒に行こう、行こう。ねぇ、お願いぃ。」






私は立ち上がり、わかったわと思わず頷いてしまった。
その時、左の袖を捲ったままで浅い跡が剥き出しだったことに気付いて、私は慌てて袖口を直した。






「よかった。」






その子の父親は、穏やかな笑顔を私に向けた。
嬉しそうなその眼差しにどぎまぎして私は目を逸らし、小さな手に引かれて駆け出す。
背中に彼の視線がいつまでも投げられているような気がして、鼓動だけが速いままだった。




ツアーは、飼育員が普段見ることの出来ないバックステージを見せてくれるものだった。
片耳につけるイヤホンが貸し出され、長靴へと履き替えて参加者は水槽の上へと連れて行かれた。
私たちの他には数組のカップルと家族連れ。
同じ保育園の園児の姿はなく、少しほっとした。
特定の園児だけ故意にしているなんて言われたら大変なことになる。
この子の熱意に押されて迂闊について来てしまった事を今更ながら後悔した。
でも、父親の手を引いて、そして時折私に纏わりついて嬉しそうにはしゃぐ姿を見ると思わず目を細めてしまう私もいる。
それに…。
私がついて来たのは、熱意に押されてだけじゃなかった。


私は、興味があったのだ。この父親に。




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