艶めきの標本箱
「まるで、先生みたいですね。」
確かに、そう言った気がした。
あまりのことに、息が止まりそうになる。
思わず彼の方を向いて、どうして?という顔をした時、飼育員の声が聞こえた。
「あれは眠り鱶というんですが、咬みつかれるのがどうも好きみたいなのですよね。
タイミングが合ってしまうというか、ちょうど咬みつかれる様に他の鮫の口の前に出てしまうのです。
だから、ガブリとやられてしまって、あんなに傷だらけなんですよ。」
右耳から入る飼育員の説明が、まるで自分のことのようで恥ずかしくなる。
それでも飼育員の説明は続いている。
彼は黙って私の左腕を掴んだ。
さっき慌てて隠した、咬み跡のちょうど真上を。
見られていたんだ…。
「昼間はじっとしている臆病な眠り鱶は、夜行性なんです。
でも、どうして咬みつかれるのが好きなんでしょうね。」
飼育員の言葉に重なるように彼が私の左耳に囁く。
私が左腕を押さえられていることには、誰も気付いていない。
「昨夜、夜の街で先生を見かけました。
私にも、その腕を差し出してもらえませんか?
眠り鱶のように。」
さぁ、続いてはこちらの水槽をごらんくださいとの声で、皆が手摺から離れ始めた。
ぎゅっと左腕に強い力が込められて、私は思わず声をあげそうになる。
そして、咄嗟に私は小さく何度か頷いていた。
それを確認したかのように、彼はにこりと微笑んで何事もなかったかのように手を離した。
「さぁ、行きましょうか。」
彼が歩き始める。
私の名を呼んで、小さな手が私に絡みついてくる。
サメさん、怖かったねぇと私の左腕に柔らかな頬を当てて、しがみついてきた。
ふかふかする頬があたるその場所は、ちょうど咬み跡のところだった。
「えぇ、怖かったわね。とっても…。」
もう一度深い水槽の中を覗き込む。
大きな影は相変わらずゆっくりと動き回り、水底近くを往来している。
傷だらけの眠り鱶。
水槽の中から飛び出した気でいたけど、ここから出て行ったのはあの人の方だった事に気付く。
私はこの場所で、深く深く潜り続けているのだ。
そうして、鮫たちの口元に身を差し出して傷を受けることを望みながら。
この水槽の中でいつまでも。
私は、ため息とも吐息とも分からぬ息をひとつ深く吐き出して、眠り鱶に背を向け歩き出した。