艶めきの標本箱
スケッチブック




「ねぇ、私を描いて。」









あの頃のように彼の脇に座り込んで、スケッチブックに彼の世界が広がっていくのを眺めていた午後に、なんの脈絡もなく私はそう言った。
思いつきのような言葉に彼はほんのちょっと手を止めて、そして再び描き出した。
視線を私に向けることなく。




「最後に、一度だけ。」




私はゆっくりと立ち上がって、今年着るのはこれで終いだろうと思われる薄水色の木綿のワンピースの裾を少しだけ上に持ち上げた。
私の動きに影が揺らぎ、彼の手もとを暗くした。
それで初めて、彼は私の方を見た。
戸惑いを隠すような迷惑げな表情で。


夏を見送る蝉の鳴き声が、私たちの沈黙を包んだ。









幼なじみ。
それは、私にとって堂々と彼の隣に居られる口実だった。
いつしか、そのことが私たちを静かに悩ませ、曖昧な関係とした。




高校を卒業する前に、悲しい出来事が彼を襲った。
詳しくは解らないが、右手首を患いしばらくは絵筆を握るどころか動かすことも出来なくなったのだと、母が話していたのを耳にした。
美術関係へと進もうとしていた彼の道は途絶えてしまって、本当に可哀想よねぇと受話器に向かって話している。
大変な手術になるらしいわよ、と潜める声にその先はよく聞きとれなかった。
目眩がした。
一瞬、理解が出来なかった。
今すぐ駆け出して彼の元に行きたいと思った。
なのに。


偶然、街ですれ違った時私は、彼になんと声をかけたらいいのか解らず、咄嗟に彼から目を背けてしまった。


彼の瞳と、痛々しい手首の包帯。
避けた視線の端に焼きついた。




ああ、確か。
今と同じ表情で彼は私を見ていたんだ。





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