臆病の定義

 その身体が宙に浮く。
 一瞬。トラックが横断歩道を駆け抜ける。ブレーキが間に合わず、充分なスピードを抱いたまま。
 兄弟の姿は見えない。
 人々の叫び声は頂点に達し、トラックの叫び声は轟き、人々の耳を支配する。何も聞こえない。悲劇を覚悟する声以外は、何も。
 誰もが力一杯に目を閉じた。
 その中で僕一人が目を閉じなかった。閉じることが出来なかった。何か大きな力が僕に呼吸する余裕さえ与えなかったのだから。
 そして、僕は見たのである。
 トラックが通り過ぎたその向こう、大きな瞳から大きな涙を零している弟を。その弟の頭を、腕と足に大きな痣を作りながらも撫でている友人の姿を。
 数秒の時差、人々は安堵の声を漏らす。何事もなかったように道は車が行き交い、歩道にもやがていつも通りの平穏が訪れる。耳を支配していた叫び声は消え、代わりに僕の鼓動が鼓膜を揺らした。僕の心臓は先程まで動いていたのだろうか。
 信号が青に代わる。横断歩道の向こうでは弟が何度も謝っていて、兄は笑顔のまま弟の頭を撫でるばかり。自分自身の怪我を一切気にせず、弟ばかりを心配して。
 ――僕は臆病だ。
 二人の元へ駆け寄る途中、ふと友人の言葉を思い出す。身体を張って、命を賭けてまで弟を救った友人の普段の口癖を。
 わかっている。普通、このようなときは第一に二人を心配する声をかけるべきなのだ。
 しかし僕は駆け寄ってまず問いかけた。
 君は何故、いつも自分は臆病だと言うのかと。弟の為に命を賭ける君は勇敢ではないかと。
 友人は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべて言う。
 まるで、当然の理を話すかのように清々しい笑顔で。


「弟は名も知らない猫の為に命を賭けるが、僕は大切な弟の為じゃないと命を賭けられない。弟は勇敢だ、僕はなんて臆病なのだろう」


 僕には、言葉がなかった。


臆病の定義 完  著:白鷺美鈴
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