蠱惑な、異名。


夏の夜空を思わせる濃紺の紗の着物には、銀星のような模様が裾近くにだけ施されていた。
清清しさを感じさせる帯はすぐそこまで来ている夏に相応しい爽やかな御空色。
歩く度に裾が軽やかに遊ぶ。
夏の着物がこんなに心地よいなんて知らなかった。
あなたに見せたかった、お気に入りの着物。
そういえば、まだ着物姿を見せたことがなかった。
だからどうしても、今日は、今日だけは着物でいたかった。
雨が降ったらどうしようかと不安だった。
でも雨が降ってもいいとも思っていた。
私の決心には変わりがなかったから。





橋を渡ったその先には初めてここに訪れた時、一緒に休んだ茶屋があった。
店の女性が柔らかな笑顔で挨拶をしてくれる。
私は以前と同じ場所に座ってお茶を頂く。
いつか着物で来ようねと話したことが、今ではただ懐かしい。
店の前には不釣合なほどに大きな七夕飾りがあった。
どうぞご自由にと、様々な色で作られた短冊が束になって置かれていた。
私は袖口を少し捲り上げてから、身を屈ませる様にして短冊へと願い事を書き込んでみる。
筆ペンで小さく書いた文字。
願い事はたったひとつ。
迷わず一気に書き上げた。
そして、最後にいつもあなたが愛しそうに呼んでくれた、私の名前を書いた。





それはあの人が亡くした最愛の娘と同じ名前だった。


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