蠱惑な、異名。

大切な娘を不慮の事故で亡くしたばかりのあの人と出逢ったあの頃、私は好きな人以外とはキスはしないと決めていた。
まだ私には若さしかとりえがなくて、何にでも興味津々の子供だった。
どこか憂いを纏うあの人に心惹かれて誘ったのも私からだった。
自分を大切にするんだよと私を諭すあなたが何だか無性に腹ただしくて、気がついたら無理やり私から唇を奪っていた。
そんな私に驚いて私の頬を両手で包んで唇を引き剥がしてから、自分を大切にしなきゃ…と言いかけてやめ、そして私の名前を呼んで今度はあの人が私の唇を奪った。
さっきまで燻らせていた煙草の苦さだけが妙にリアルで、私はどこかぼんやりとしていたのを覚えている。




やがて少しずつ彼が自分のことを話してくれるようになって、そして私は最愛の娘と同じ名前だということを知った。
田舎から出てきて箸の上げ下ろしすらろくに出来ない私に、それこそ旧い映画の物語のように彼は根気強くひとつひとつを教えてくれた。
お陰で私はどこに行ってもとりあえずは恥かしくない程度の行儀作法を身につけることが出来た。
自分では行くことの出来ないような素敵な場所に連れて行ってくれる彼と居るのは、毎日がきらきらして見えるような感覚だった。
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