まほろばから君を呼ぶ(上)
1
 数分間、宙で静止していた絵筆は一度もキャンバスをなぞることなく、パレットの上に置かれた。周りには誰もいない。校庭からわずかに聞こえてくる喧騒と、単調な時計のリズムが美術室の静寂を強調していた。
 遅々として進まない描きかけの絵を前にして九条周はそっと吐息を吐く。
 何故だろう? 今まで絵を描くことで躊躇することなどなかったのに。なぜか筆を進める気になれない。納得がいかない部分があるわけではない。自覚はしている。これは気持ちの問題だ。だけど、理由がわからない。
 軽い気持ちで描き始めたこの絵に、なにか、嫌悪感にも似た感情が付きまとう。自分の体の目の届かない場所に、大きな傷跡を見つけたような感じ。一度認識してしまえば意識せざるを得ない、そんな気分。
「……ん――――――」
 同じ姿勢を維持していたせいか、背中が少し硬くなっていた。両手を挙げて思いっきり体を伸ばす。ミチミチと背中のスジが伸ばされ、痛みと共に疲労が霧散していく。どうせならこの心のしこりも一緒に解消したい。けど、まぁ、それはこの絵を納得のいく完成品として仕上げる他には無さそうだ。リフレッシュ終了。周は再び絵筆を手に取り、キャンバスと対面した。
 キャンバスの中には見慣れた風景。暖かい色調から染み出てくる微かな絶望。
 やはり、筆が迷う。桃色の筆先が虚空をなぞる。拭いきれない嫌悪感を塗りつぶそうにも、発信源がわからない。
 周は小さく舌打ちをした。どうやら長期戦になりそうだ。本腰を入れて、この絵の修正箇所を特定するのが先らしい。それがわかるまでは絵筆の出番は無さそうだ。周は絵筆をパレットの上に放り投げ、さて、どうしたものかと目の前のキャンバスにいつものように意識を集中させる。
「相変わらず、絵を描いているあんたの姿は――――――、何というか不気味ね」
 いきなり後ろから聞き慣れた声で失礼な台詞を浴びせられた。もっとも周にとって、この台詞はもう何度も聞かされてきたものだったので、特に不機嫌になることも無く後ろを振り向き、声の主に視線を投げる。

 瞬間、世界が赤く塗りつぶされた。
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