エスメラルダ
第二十三章・革命と花冠
「生きている……と?」
ファトナムール王太子ハイダーシュの首を塩漬けにする為に近くの兵に委ねたフランヴェルジュは、何を言われているのか最初理解出来なかった。
 自分の前に跪いている老兵は何を言っているのだろう?
「確かですか!?」
 エスメラルダが、驚愕と喜色の混じった声を上げた。
「確かに。まだ、息をしておいでです。傷口は浅く、希望はあるかと。独断で、御典医を呼ばせました。勝手な判断をお許し下さい」
 老兵が頭を垂れながら、一言一言噛み締めるように言う。
「陛下!」
 呆けているフランヴェルジュにエスメラルダは声をかけた。
「ブランシール様が、まだ、生きていらっしゃると!! まだ希望はあると!!」
 ブランシール。
 その名前だけが、フランヴェルジュの耳に届いた。ブランシール。生きて? 生きて?
「エルロフ、フォトナス、王をお連れしなさい。お部屋まで。湯浴みをさせて、薬湯を飲ませ、お休みいただきなさい」
 凛とした声が響いた。
 アユリカナである。
 血臭むせ返る中、庭に降り立った美しい王太后は、喪服の裾を捌きながら顔を持ち上げ、その場の空気を一度に変えた。
 名前を呼ばれた二人の騎士が跪礼を取り、胸に拳を当て、返事をするとフランヴェルジュを支えるようにして歩き出した。
 エスメラルダの手は、意識しないうちに解かれていた。アユリカナの声が、そうさせた。ただ彼女は、愛しい男の様子をじっと見やる。
 フランヴェルジュ様……!!
 戦争は避けられない事だった。
 様々な要因からそれは決定事項といっていいものだった。
 そしてブランシールが殺された、否、殺されようとした時点で、それは揺るぎのないものになった。
 だが、ハイダーシュを殺めた事は果たして正しかったのだろうか?
 少なくとも、死体への辱めは、正しい事ではない。
 宰相が牢に籠められ、ブランシールが重傷を負っている今、フランヴェルジュをとめられる者はアユリカナか───エスメラルダしかいなかった。
 それなのに、と、エスメラルダは思う。
 何故わたくしはもっと早くにお止め出来なかったのであろう。
「良い報告です。そなたの判断も妥当なものでした。キュラスト」
 アユリカナが老兵の名前を呼ぶのを聞いて、エスメラルダははっとした。
 ぼうっとしている場合ではない。
 事態をきちんと把握しなければ。
「はっ!!」
 キュラストと呼ばれた老兵は胸を拳で叩く。
「王はお疲れですが、後に必ずやお褒めの言葉をそなたは賜る事でしょう。ブランシールの容態を話して下さい」
「剣での傷は浅いものでございました。しかし……私は医師ではございませんので……」
 キュラストの言葉に、アユリカナは片眉をあげる。握りしめた白い小さな拳が、震えていた。
 ああ、とエスメラルダはうめきそうになる。
 アユリカナ様は、本当は今すぐにでもブランシール様の許に向かわれたいのだわ。
 身分ゆえに、軽々しく動けない事を知っているアユリカナ。
 彼女が堂々として慌てず騒がなければ、人々は安堵するだろう。他の者がそうしたなら情のないことだという謗りを免れないだろうが、メルローアの人間はアユリカナを大地のようなものだと信じてきた。
 決して揺るがぬものだと。
 それは信仰に近いものがあったかもしれない。
 それを知っているからこそ、アユリカナは走れない。息子の許に走れない。
「キュラスト。わたくしは今、そなたの意見を聞いているのです」
 アユリカナの声は、静かだった。
「……おつむを打っておられるようでした。血が……流れておりましたが、とりあえず、応急処置を施し、御典医を呼びに」
「頭を……医宮に運ばれるのですね。わたくしもそちらに向かいましょう。エスメラルダ、ついてきてくれますか?」
 エスメラルダは頷くしか出来なかった。
 何故、血は流れるのだろう。一体何故?
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