エスメラルダ
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「呪い?」
鸚鵡返しに、アユリカナはバジリルに問うた。今日は少年の姿のバジリルは、ただ黙って頷く。
きぃきぃと、揺り椅子が軋む音がした。
アユリカナの後ろ、窓際でエスメラルダは揺り椅子を揺らす。腕にルジュアインを抱いたまま。
そのエスメラルダとバジリルの目が合った。
エスメラルダはすぐに視線を外し、腕の中の赤子に集中する。今は眠っているこの赤子だが、赤子用のベッドに寝かせた瞬間に不満の泣き声を洩らすという困った赤子であった。
バジリルは困った顔をした。
「バジリル、詳しく説明なさい」
アユリカナが痺れを切らしたかのように言う。その言葉に、バジリルは嫌々ながらも言葉を紡ぐ事しか出来なかった。
早朝、六時。
高貴の血筋の者達には早い時間であれど、アユリカナの顔には隈一つ見つけられない。
しかしよく見ればそれが丁寧な化粧ゆえの事だと解る筈だ。
そのアユリカナに告げるのは気が進まなかった。ましてや後ろのエスメラルダには。
だが、それがバジリルの役目である。
「術式は完成しておりませんでした。血で書いた呪術の陣は途中で途切れ、その代わりに苦しみにのた打ち回ったレーノックスが吐血した後が陣を汚しておりました。呪の途中で自害に及んだ理由は解りません。ですが、その為に呪は完成しませんでした。呪の効用は、『子成さず』……」
「よくそのようなものをレーノックスが知っていた事。『子成さず』の呪はエスメラルダに向かって放たれんとしていたのでしょう?」
眉をしかめながら言うアユリカナに、バジリルは頷いた。
それを聞きながらも、エスメラルダは平然とゆり椅子を揺らしている。
きぃきぃと、椅子が軋む音が心地良く、眠ってしまいそうだ。
昨日眠れなかった分、余計に。
エスメラルダは誰がレーノックスを自害に追いやったか知っている。
カスラだ。
『子成さず』の呪は子宮を破壊する呪だ。
大抵の場合、その痛みと出血に耐え切れず、被術者は命を落とす。
カスラがそのようなことさせる筈がなかった。エスメラルダを守る為になら幾らでも独断で動く彼女である。牢に忍びこむと彼女はレーノックスに幻術を用い、その滑稽な男を自害に追いやった。
カスラはレーノックスの執務室から、彼の愛用のナイフを彼に最期を告げる為に持っていっていたのだが、彼自身のポケットに毒が忍ばせてあった。
釣り鐘の耳飾り。飾りである石の中に入っている液体こそが毒。一口で百人は殺せる毒。
何処でそれを手に入れたかはカスラにはおぼろげながらに解った。石の色は青。
アシュレ・ルーン・ランカスターがカスラに命じて用意させた対の耳飾りの一つだった。
もう一つは琥珀色。フランヴェルジュが持っている。青の石の行き先は、ブランシール。
ブランシールが布石を打ったのだ。
それなら彼の遺志のままに、その毒でもってレーノックスを滅ぼすのが得策であるとカスラは思ったのだとエスメラルダに語った。
それに対してエスメラルダは褒める言葉を授けた。より『自害』に見える死に方の方がこの国に波風を立てない。ナイフより毒を用いるのが貴人であろうから。
「恐ろしい事。だけれども、あれが死んだ今となっては膿が出されたと喜ぶべきかしら? メルローアの膿、多少の出血は致し方ない事。それよりも戦の方がわたくしは心配」
アユリカナは過ぎ去った危機をさっさと頭の中で片付け、戦へと関心を戻した。
「そのことですが、王太后陛下。ブランシール様が……」
バジリルはそっと告げた。
ブランシールが、国境を守る砦の全てに増援の手配を済ませていた事、兵糧の確認とそのルートの確保を済ませてあった事、それから……。
「ブランシールは予測していたというの? 自分が大怪我を負うか死ぬかするという事。それともいつもの早手回し?」
アユリカナは目を眇める。
金色の目はまるでしなやかな猫科の動物のように隙がない。その場ごかしは通用しないであろう。
「どちらとも、言い難く、また、どちらとも、言えるかと……」
バジリルの背中を嫌な汗が伝った。
変わらないのはただ一つ。戦争が始まる事。