エスメラルダ
「わたくし、何か出来る事はありますかしら?」
 不意に声を上げたエスメラルダに、アユリカナとバジリルがはっとしたように彼女に顔を向けた。
 きぃきぃという音が止まっていた。
 エスメラルダは今、赤ん坊を抱いたまま、すっくと立っている。
 緑の瞳には、揺ぎ無い遺志があった。
 此処に在る事が定めなのだと言うのなら受け入れよう。
 だがしかし、ただ安穏と在る事など許されようか?
 否だ。
 アユリカナは困った顔をした。しかし、その黄金の瞳は激しい誇りに輝いていた。
 自分が娘と呼びたいと念じた娘は、この国の為に、そしてこの国の王たる彼女の息子の為に働こうとしている。
 エスメラルダの微妙な立場から来る困惑と、歓喜が入り混じったアユリカナの表情は、ぱっと見苦しんでいるように見えた。
 エスメラルダは黙ってアユリカナの言葉を待つ。
 一瞬だった。
 長い時が経った様な気がした。
 アユリカナはそっと目を伏せ、そしてまた目を見開いた。
 その瞳から誇り以外の全ての感情を消し去って。
「可愛いわたくしの娘」
 アユリカナの熟れた唇が言葉を紡ぐ。
「あなたの立場はとても微妙なもの。王妃であって王妃でない。わたくしの客人という風に受け取っている者が多いかもしれません。また、おかしな風評も立っています。だから、貴女は自分の力で自分の地位と居場所を手に入れなくてはなりません。そして貴女は、わたくしの『娘』でいてくれる事と信じています」
 エスメラルダは頷いた。
 ルジュアインの為に。
 それはレーシアーナの為でもあった。
 ブランシールの為でもあった。
 フランヴェルジュの為でもアユリカナの為でもあった。
 彼女の愛する全ての人の為であり、彼女自身の為でもあった。
 迷っていたエスメラルダはもういなかった。
 此処にいると決めたエスメラルダは、徹のように固く柳のようにしなやかなその意志を抱いていた。
 アユリカナは続ける。
「わたくし達の、女達の動く時は今ではありません。戦の情勢など男達に任せておくが宜しい。男達が戦いに赴いた後、この国を守るのが女の役目です。その時まで体力を温存しなさい。ルジュアインもいるのですから。……もしどうしても何かしたいというのであれば、兵糧だけでなく、医薬品や、兵達の携帯する道具一式でも見に行きますか?」
「はい!」
 エスメラルダは頷いた。
 何かをしなくてはならないときだと言う事を彼女は敏感に感じ取っていた。
 災害に立ち向かうには頭を低くしてそれが通り過ぎるのを待つか、さもなくば立ち向かい戦うかしかない。
 逃げる事は既に選択肢から外されていた。
「昔、わたくしが子供の頃ね、戦があったわ。リドアネ王の王妃の名は知っていて? ルーニャと仰るの。義母は、わたくしに言ったわ。男は先に進む事しか考えない。憂いを消すのは女の役目だと。突っ走っていく彼らは、ザックの中には自動的にコンパスや乾パンや固形燃料が入っていると思っているから、そのお馬鹿さん達が戦場で泣かずに済む様にするのもまた女の為すべき事だと。女には男ほどに大局を見極めて命をかける事が出来ないけれども、細かなところに目をつける事は得意だから、支えあい、成すべき事を成せと」
 男でも細かいところに目を配れる者は一杯あるだろうとエスメラルダは思う。
 極端すぎる話だが、しかし、後にエスメラルダは未来の義母が正しかった事を知る。

 男達の殆どが、戦に酔っていた。
 そして、戦勝のムードに満ちていた。
 まだ剣をあわせたわけでもない敵の首級を、自分なら幾つ取れる、いや、自分ならと言い合い、酒を浴び、町に繰り出していった。
 緊張しなければいけない筈の兵達は、老兵の語る戦いの記憶に耳を傾け、武勲を上げ、家名を上げようと野心に満ちていた。
 宣戦が布告されて兵が整えられつつあるその日々は、王都カリナグレイが、否、メルローア全土が祭りに湧く日々でもあった。
 特に娼館は、おしよせる男達によって占拠されたも同然だった。戦いの前に女の柔肌に溺れていた男達はまさしく酩酊していたのだと言って良いだろう。
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