エスメラルダ
 その時、くらりと視界が暗転する。フランヴェルジュの腕に抱きつくようにエスメラルダは倒れた。
 空腹だったのである。
 どんなロマンスも、空腹の前では太刀打ちできない。と、言う事で、フランヴェルジュの部屋に四人分の食事が届けられた。
 フランヴェルジュとエスメラルダ、ブランシールとレーシアーナの分である。
 エスメラルダは汗でべたつく服装や髪を気にしていたが、湯浴みはまだ暫く駄目と言われ落ち込んだ。しかし、レーシアーナが寝室から男性陣を追い出し、熱い湯で絞ったタオルで身体を拭いてくれた。そのお蔭でエスメラルダは随分気が楽になった。そしてドレス。
 白の木綿のドレスに精緻な刺繍が施されている。スカート部分の裾から花畑が広がる。
 目眩がするエスメラルダの為に、着替えが終わったとの知らせを受けた兄弟はテーブルごと食事を運んできた。
 楽しい食事だった。
 だからこそエスメラルダは、さっきまでの涙をフランヴェルジュに忘れて欲しいと思う。
 何だか自分が自分でなくて……気持ち悪かった。
 エスメラルダは、勝気でおしゃまで少し我儘な、そんな少女でなくてはならないのだと、自分で自分を定義づける。
 本当のエスメラルダはそうではないのに。
 そういう部分がない訳では、勿論ない。
 だけれども、カッティングされたダイヤモンドが何処から見ても煌めいているのと同じで、他の角度から見たエスメラルダも存在するのだ。そして輝いているのだ。
 泣き虫で寂しがりで、嫌われる事を極端に嫌う娘。
 エスメラルダは呪文となりつつあるランカスターの言葉を、心の中で詠唱した。
 泰然とあれ、エスメラルダ。泰然とあれ。
 わたくしはわたくしの弱さが怖い。わたくしは、こんなに弱くは無い筈。
 朝食の席でデザートなど本来はつかぬのであるが、病み上がりのエスメラルダの為にアップルパイが用意された。
 それをつつきながら、エスメラルダはもう、いつものエスメラルダに戻りつつあった。
「ところで、わたくしは何故倒れていたのでしょう? 倒れたときの記憶が、無いのですけれども」
 エスメラルダの問いに、残り三人は皆複雑な顔をする。何処から説明したら良いのだろうと。
「エスメラルダ、お前は酒を飲んだな?」
「お酒……ですか? ああ、ノーブルロット」
 エスメラルダは思い出した。
 レイリエが土産として持ってきてくれた酒だ。確か、レイリエが帰ってからも飲み続けていた。そしてボトル三分の一程残したところで飲むのを止めたのだった。非常に珍しい酒のようだし、また飲みたいと思ったのだ。
 それを説明すると、三人は安堵した。
「だから助かったんだ。ボトル一本あけていたら死んでいたぞ!」
「でもレイリエ様も飲んで……あ!」
 エスメラルダは思い出した。
 素面では話しにくいだか話せないだかと言われたのだ。それなのにレイリエは舐めるようにしか酒を飲まなかった。エスメラルダが用意させた林檎ジュースを飲んでいた。
 あの時、思い出せねば大した事ではないのだろうと思った。だがそれは間違いだったのだ。
「侍女のマーグとやらが全部説明してくれた。遅効性の毒だと医者は言った。お前の反応では思い当たる節があるらしい。早速、レイリエを捕縛せねば」
「そのような事……わたくしのような何の身分も持たないものが一人、命を危うくしただけではありませんか」
 フランヴェルジュの言葉に、エスメラルダは瞳を伏せた。
「お前……!!」
 フランヴェルジュが吠えかかったその時。
 ぱしん! と、音立ててレーシアーナがエスメラルダの頬をひっぱたいた。
「わたくしは! 冗談でも!! 自分の命の価値を軽々しく扱う人は!! 許せないの!!」
 エスメラルダは頬を押さえた。熱い。
 フランヴェルジュとブランンシールは呆気に取られて、二人の娘の間に視線を行ったりきたりさせている。
「貴女はたった一人のお友達なのよ……!!」
 レーシアーナが泣き出した。
 フランヴェルジュはそっと弟の肩を叩く。
 揃って、二人は寝室を後にし、居間へ向かった。
 自分達より、レーシアーナの方がうまく処理すると思ったのだ。
 レーシアーナがエスメラルダの膝に頭を乗せ咽び泣く。その頭を、エスメラルダはなで続けた。ずっと、ずっと。
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