エスメラルダ
 どれ程時が経ったであろう。
 エスメラルダはうとうとし始めた。
 手が止まり、また動く。
「エスメラルダ……?」
 レーシアーナは顔を上げた。
「ご免なさい」
 唐突に、エスメラルダは詫びる。
「ちゃんと、命を大切にするわ。ご免なさい」
「エスメラルダ……有難う……」
「わたくし、疲れたわ……」
 エスメラルダが言った。
「眠りが足りないのよ」
 レーシアーナは言う。エスメラルダはベッドに横たえられるとすぐに眠りに落ちた。
 その寝顔を、レーシアーナは優しく見つめる。
 倒れたと知らせを聞いた時、自分はどれ程取り乱したであろう。泣きじゃくって、喚いて、レイリエに呪いの言葉を吐いて。
 生きていてくれて、良かった。


 時計が鳴る。
 居間の兄弟は顔を見合わせた。
「十五時の音か、後三十分で会議だな。エスメラルダも落ち着いたようだし、出るか。ブランシール、お前もだ」
「はい、兄上」
 ブランシールは笑顔で答える。
 ブランシールは国王のブレーンとしては若い部類に入るだろう。まだ二十歳にもなってないのだから。
 だけれども、日頃からの勉強が役に立った。
 政と一口にくくられるそれらには税の徴収や年金、保護費、その他の金に関する項目だけでなく、土木治水、ありとあらゆる事があった。だからブランシールは努力した。教わるだけでなく自分から学ぼうとした。
 今、フランヴェルジュは確実に弟を頼りにしていた。
 頭でっかちで歳だけ重ねた老人達(フランヴェルジュ風に言うとクソ爺らしい)百人分の意見の価値があると、フランヴェルジュはブランシールを買っていた。
 その時、寝室からレーシアーナが出てきた。
「わたくしは緑麗館に行って参りますわ。マーグ達が心配しているでしょうから。時々、本当にエスメラルダには吃驚させられます。どうしたら召使達とあんなに信頼関係を築けるのでしょうね?」
 答えを必要としない疑問文。エスメラルダが彼女自身である限り、彼女に仕える者達は比喩でなく命をかけて仕えるであろう。
「では」
 レーシアーナは国王と婚約者の前で正式な礼を取った。未だ家族ではない故に。
 例え国王の居室に天涯孤独の少女を匿うといった秘密を共有していても。


「あ、兄上」
 会議場に急いでいた兄弟は大理石の通路で立ち止まる。会議室とフランヴェルジュの部屋の丁度中間点辺りであろうか。
「ギナス平野の地図を持ってくるのを忘れてしまいました。申し訳ありません。取りに行って参ります」
 畏まる弟の肩に、フランヴェルジュは武人らしい無骨で肉刺だらけの手を置いた。
「今度の事では大分お前に心配かけてしまったからな。疲れているのだろう? 無理させて、すまん。地図の一枚位なくとも会議は……」
「いいえ、なりませぬ。兄上。ギナス平野で取れる皮革を密漁している者達がいる事を確かめた。そして犯人も突き止めてある。後は敵がぼろを出すのを待つだけですが地図はやはり必要かと」
「解った。俺は先に会議室に行くからな」
「はい、兄上」
 ブランンシールは駆け出した。
 かん! かん! かん!!
 大理石に足音が響く。侍女達が道を開ける。
 ブランシールは部屋の扉に手をかけた。
 書斎へ急ぐ。ああもがさつに見えて、フランヴェルジュは完璧主義者であった。机周りの片付いている事といったら素晴らしい。
 ブランシールはすぐに目的の地図を見つけ、手に取り、確認する。
 その時、隣の寝室から風が吹き込んできた。
 扉の方角を見ながら、ブランシールは固まってしまう。
 しかしそれも一瞬の事。
 ブランシールは動いた。何故かは解らなかったけれども。寝室の扉を通る。
 黒髪を扇のように広げエスメラルダは眠っていた。呼吸に合わせ胸を上下させながら。
 ブランシールは引き寄せられるようにエスメラルダの顔に手を這わす。そして眠り姫に口づけた。執拗に。
 この女性は兄上のもの……! なのに!!
 でも、『だから』かもしれなかった。
 兄は決して手に入らない。彼らは同母の兄弟であり男同士なのだから。
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