エスメラルダ
 そうなると朝の時間が楽しくなり、四人は四人とも時計の音が聞こえないようにと願いながら一生懸命論議を発展させていった。
 そのおかげでエスメラルダもフランヴェルジュの事を妙に意識したりはしなくなったがこれはこれで恋愛成就からは一歩、遠ざかったといえよう。
 つくづく周りの手が必要な二人である。
 レーシアーナとブランシールが二人きりにしても真面目に政治について語り合っていたりするのだからもうどうしようもない。
 そして、エスメラルダは、毎日のようにアユリカナの許を訪れるようになった。
 アユリカナが受け持っていた慈善事業に関する知識を吸収し、次の日の朝に行われる論議の武器にするためと言うのが建前。
 本音は、エスメラルダがアユリカナに母を求めての事であった。
 エスメラルダ自身、意識していない無意識のうちの『母』への思慕。
 それがアユリカナに向かっていったのである。アユリカナは苦笑を扇の陰に隠す。
 わたくしはいつだって『母』になる気はありますものを。
 エスメラルダは遠慮がちだ。
 少し、怯えているのはアユリカナに嫌われたくないと意識しすぎているためであろう。そんなところまでが初々しくて愛しいのに娘と呼べぬのは辛くあった。
 レーシアーナはあっさり『娘』となるが、エスメラルダの方が単純な故に解きにくいパスルのような、そんな難しさを感じる。
 でも、既にエスメラルダは愛しい。
「アユリカナ様、何か?」
 エスメラルダの問いにアユリカナははっと扇を膝に落とした。無意識のうちに意識を飛ばしていたらしい。それは客人をもてなす女主人としては大層礼儀に外れた事だった。
「ご免なさい、娘……」
 ぽろりと唇から零れ落ちた言葉。
 その言葉にエスメラルダは緑の瞳を見開く。
 『娘』?
 確かにアユリカナはそう言った。
「あ、あら、わたくしったら、ご免なさいね、わたくし、つい」
「つい……?」
 狼狽するアユリカナをエスメラルダは見詰める。その挙動に一切の不審点がないかという事を確かめる為に。
 何事も見逃すな。
「ああ! もう貴女ったら!!」
 アユリカナは椅子を蹴るようにして立ちあがると、向かいの椅子に座っていたエスメラルダを抱き締めた。
 エスメラルダは、動けなかった。
 さらさらという衣擦れの音と共に漂う柑橘類の香り。『砂上夜夢』という香水の匂いだったと体温と重みを感じながらエスメラルダは冷静に判断する。
「ずっとこうしたかったのです。わたくしは」
 アユリカナは囁いた。
「娘のように貴女を愛おしく思っていてよ」
「……何故ですの? アユリカナ様」
 エスメラルダはようよう言葉を紡いだ。
 だってエスメラルダには理由が見当たらない。何処にもない。
「それは……」
 アユリカナは言いよどんだ。
 フランヴェルジュが懸想しているからと愛おしんできたのなら、可愛らしくも愚かな息子の気持ちは伏せて適当に言い含める事も出来たであろう。
 だが、アユリカナがエスメラルダに感じているのはそのような気持ちだけではなかった。
 それは酷く残酷な事実。
 エスメラルダの、猫の瞳のようなエメラルドグリーンの瞳には愛情の飢餓を訴える光が余りにも色濃く浮かんでいたから。
 同情しているのではなかった。
 だけれどもそれをどう伝えれば良い?
 生真面目なアユリカナには適当な言葉が見当たらない。その真っ直ぐさこそが先王レンドルが愛した美質であり、長男フランヴェルジュに受け継がれているものであり、アユリカナの誇りであった。しかしこのような状況ではレンドルの巧みな話術が欲しくて仕方がなかった。ブランシールが受け継いだ美質だ。
「わたくしは、ただ、ね」
 アユリカナが言った。
「貴女が余りにも与えられる事に対して不器用に思えるの。物の事ではなくてよ。気持ち。感情。心。そういったものを与えられた時、困り果ててしまう貴女を見ていると……きっとわたくし自身を見ているような気がするのでしょうね。レンドルと出会う前のわたくし自身を。勝手な憶測で申し訳ないのだけれど」
 アユリカナの腕の中で少女が震えた。
 アユリカナは願い、祈る。
 どうかそんな悲しい目を、幼いこの娘がしなくても済みますように。
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