エスメラルダ
 ブランシールは水煙草を吸いながらうっとりとしていた。
 感覚が解放される。世界が虹色に見え、皮膚が酷く敏感になる。
 そしてブランシールは目を開けてみる夢に溺れる。
 愛しい人。
 たった一人の絶対なる人。
 それは心から大切にしたいと願うレーシアーナの事ではなかった。
 あの人によく似た煌めきでブランシールの心を一時的に奪ったエスメラルダでさえなかった。
 あの人は唯一にして絶対の物。
 その人がブランシールの事を抱き締める。
 体中が歓喜の声を上げる。細胞の一つ一つが喜びに震え、溶け出しそうになる。
「ああ……」
 ブランシールは喘ぐ。
 その夜はエスメラルダが城内に迎え入れられて丁度一週間目の夜であった。
 小さなパーティーが催されているのだが、小さいとはいえ国王が臨席するパーティーを中座したブランシールは、自室の奥、寝室の隅で水煙草を吸っていた。
 禁断症状が出たのだ。
 もう、それ位にブランシールは冒されていたのである。
 レーシアーナにも止められなかった。何故ならブランシールは自分に割り当てられた仕事が終わると、翌日行われる仕事の準備をするからとレーシアーナとは個人的には殆ど口を利かず、自室に鍵をかけて篭ったからだ。
 それでも少しだけ安心できることがあるとすれば、ブランシールの目が隈に縁取られることもなく、翌朝の四人だけの朝議には生き生きと参加したからだろうか。
 もうお止め下さったのではないかしら?
 レーシアーナはそう思い込もうとした。
 だけれども、やはり、何か変であった。
 妊娠に気付いて暫くたつというのに、レーシアーナはブランシールに言いだせずにいた。
 何故か、言えなかった。
 言える程、信用できなかった。
 そしてその夜。
 零時の鐘が鳴った。
 パーティーはお開きになる。
 その鐘の音を聞いてはっと正気に返ったブランシールは舌打ちした。
 一時間かそこらで止めるつもりだったのにたっぷり三時間も薬に溺れていたらしい。
 あの人の腕の感触を振り払い、ブランシールは『夜月の露煙管』を吸おうとベッドのサイドテーブルから新たな水煙草を取り出した。
 その時である。
 がちゃりと応接室の扉を開ける音。
 まずい、と、ブランシールは思った。
 この部屋を訪れる者といえばレーシアーナ。
「レーシアーナ! 来るな!! 後で行く!!」
 しかし、ブランシールの叫びに答えたのはレーシアーナではなかった。
「俺だ! ブランシール、今すぐこの扉を開けよ!! これは勅命として聞け!!」
 兄の怒号にブランシールの手から水煙草の煙管が転がり落ちて、割れた。
 それは隠し様のない絶対の証拠。
「お待ち下さい! 兄上!!」
「聞かぬ!! 開けぬとあらば蹴破るまで!!」
 がしっ!! と言う音と共にがたん!! という音が後からついてきた。
 そしてブランシールは恐怖に、兄から、扉から、背中を向けた。
 『花蜜水の煙管』の副作用で体中の震えが止まらない。そして割れた水煙草の煙管。
 ごまかしようがなかった。
「ブランシール! 此方を向け!! 此方を見てこの兄の顔をしっかりと見据えよ!! 出来るものならな!!」
 ぐいっとブランシールは襟首を捕まれ、兄のほうを向かされた、と、思うと、押し倒された!!
 兄上? 兄上!?
 混乱するブランシールの頭上に声が降ってくる。
「エスメラルダ」
 呼ばれた少女は「はい」と言うなりブランシールの顔に蜜蝋の燃え立つ燭台を向けた。
「瞳孔が開いているな。お前、いつからだ?」
 ふるふると、ブランシールが首を振る。
「愚か者!! お前はもうすぐ父親となる身ぞ、知らんだか!?」
「ち……ちおや?」
「レーシアーナは妊娠している」
 ブランシールはその目を見開いた。
 父親? まさか、まさか、まさか!!
「毒が抜けるまで、お前の身柄を拘束する」
 フランヴェルジュの宣告。
 ブランシールはただ、恐れ戦いていた。
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