エスメラルダ
「レイデン侯爵令嬢……未来の妃殿下にこの様な事、申し上げるは大変心苦しいのですが……お許し下さい。このエスメラルダ嬢と二人にして頂けませんか?」
 マイリーテの声は今日初めて、心に思うままの事を紡ぎだした。
「ダムバーグ夫人、それはわたくしに問うべき事柄ではありませんわ。エスメラルダに仰って下さいまし。『二人になりたい』と。エスメラルダが是ならわたくしは退室致します」
 レーシアーナの言葉に、マイリーテは一瞬だけ怯えたような顔をした。だが、すぐに威厳を取り繕う。
「エスメラルダ。名乗りは済ませたので敬称は省きます。祖母から孫に敬称だなんて滑稽ですものね。お祖母様と一緒にお茶を頂きましょう。ね? 構わないでしょう?」
 レーシアーナが身を固くしているのを感じながら、エスメラルダは頷いた。
「解りました。ダムバーグ夫人」
「お祖母様とお呼びなさい。ではレイデン侯爵令嬢、どうか二人に」
 レーシアーナは立ち上がった。
「では、わたくしは席を外しましょう」
 そしてレーシアーナは背を向ける。
 行かないでという声をエスメラルダは精一杯の努力で飲み込んだ。
 ちゃんと対峙しなくてはならない事だった。
 エスメラルダ自身が。
 そう、他の誰でもないわたくし自身の問題なのだわ。
 きゅっと、エスメラルダは唇を噛んだ。
 ぱたむと扉が閉まる。
「さぁ、エスメラルダ。何故ダムバーグ家の者が侍女のようにレイデン侯爵令嬢と一緒に居るのです? お祖母様と都に帰りましょう。お祖母様は既に貴女の部屋を作らせています。緑と金を基調にね、ファリアドール式ですよ。きっと気に入ると思います。それから何か欲しいものがあって? 何でもお言いなさい」
 一気にまくし立てるマイリーテを見ていると、急速に心が冷えていくのを、エスメラルダは感じた。
 汚い俗物。
 潔癖な少女には物や何かで歓心を買おうとするマイリーテが祖母だという事が堪らなく辛かった。
 フランヴェルジュ様も物でつろうとなさったわね。最初は。
 その耳飾りは今もエスメラルダの耳朶を飾っている。だが、フランヴェルジュは他人だった。少なくともこの耳飾りを提供しようと持ちかけた当初は。
 だけれども、マイリーテは祖母なのだ。
 それなのに。
「おばあさま」
 エスメラルダは一言一言をゆっくり区切りながら言った。
「欲しい物は一つだけです」
「何です? 何でもお言いなさい」
 エスメラルダは息を一つ吸うと言った。
「わたくしのお母様の事を教えて頂きたいのです。ただ、それだけです。他に何も望みません」
 新しいお部屋も何も何も。
 マイリーテは溜息をついた。誇らしげとも苦しげともとれる溜息を。
「リンカーシェも欲の無い娘でした。貴女もリンカーシェの美質を受け継いでいるのですね。そう、あの子は天使と呼ばれていました」
 どくんっと、エスメラルダの胸が鳴った。
 天使。
 優しかった母に丁度良い名前ではないか?
 そしてマイリーテはとつとつと語り始めた。
 リンカ……リンカーシェの話を。
 エスメラルダは貪るように聞き入った。
 マイリーテの口調からは物で歓心を買おうとした卑しさは払拭されていた。ただ、語る事を禁じられた娘の、最愛の娘の話が出来る喜びに身を浸らせていた。
 『母』とはこのように純粋で、我が子の事を愛おしめるものなのだろうか?
 自慢げに話すマイリーテに、エスメラルダはただただ聞き入っていた。
 どれ位の時が過ぎたであろう。
 鐘が鳴った。十七時の鐘だ。
 お茶の客は辞去すべき時間である。
「エスメラルダ、レイデン侯爵令嬢にお別れの言葉を。一緒に都に帰りましょう」
「それは出来ませんわ。ダムバーグ夫人」
 エスメラルダは言った。
「一つはわたくしがここに滞在するというのは王太后様の命であるからです。そしてもう一つは、……もう一つは、わたくしはやはり、エスメラルダ・アイリーン・ローグでいたいと思うからです。ですが『お祖母様』、わたくしは今日、わたくしの母がどれ程愛されていたかを知りました。有難うございます」
 エスメラルダは生涯忘れないであろう。
 その日、祖母が一粒だけ零した涙を。
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