エスメラルダ
「存じております」
「だから幸せをばらまきたい気分なのだと思うわ。血は贖われなければならないものだけれども命まで取る気にはなれないの」
「そんな事で牙の生えた蛇を放置すると? 生かしておくと?」
「そんな事、だなんていわないで頂戴!」
 きゅっとエスメラルダは唇を噛み締めた。今日は生きてきた中で一番幸せ日だと思っていた。それを『そんな事』だなんて……!
「エスメラルダ様、お怒りをお静め下さいませ。私の失言でした! 決して、決して!! フランヴェルジュ様との婚姻を喜んでいない訳ではないのです!! エスメラルダ様!!」
「五月蝿く騒がないで頂戴! 頭が割れそうだわ!!」
 エスメラルダが叫んだ。
 緑の瞳が燃えるように煌く。
 だけれども、その表情は何かを堪えんとするが如く。
「責めないわ。そっとしておいて頂戴。人生最良の日だと思ったのよ。それがお前と喧嘩して終りだなんてあんまりだわ。報告だって明日でも良かったでしょうに。わたくしの幸せの邪魔をしないで」
 エスメラルダには解っている。理不尽な事だと。カスラは右腕を失う程の大怪我をしたのだ。エスメラルダの幸せを彼女なりに考えて。それなのに。
「傷の手当てをちゃんとしなさい。そして明日詳しく報告しなおして頂戴」
 言って、エスメラルダは酷く惨めな気分になった。求婚された記念日なのに。なのに。
「は」
 カスラはそういって影の中に消えようとした。その時、エスメラルダは懐のガーネットの細工の薬入れを投げた。
「母に教わった薬よ。切り傷によく効くわ。熱も鎮めてくれるし、痛みも取ってくれる。使いなさい」
「有り難き幸せ」
 そう言うとカスラはその薬入れを押し戴いた。エスメラルダはその光景から目を逸らす。
 片手で頭上に薬入れを掲げるカスラが痛々しくてならなかったのだ。
「おいき」
 エスメラルダが命じると、カスラの気配が消えた。
 考えなくてはならない事がある。
 レイリエとハイダーシュの事だ。
 考えたくなかった。
 女にとって好きな男から求婚を受けるなどとは一生に一度、あるかないかであろう。
 それなのに、そんな事考えたくなかった。折角の感動が薄れそうだったのである。
 エスメラルダは激しく自己嫌悪した。
 カスラの失われた片腕よりも、己の気持ちに浸っていたいと言う身勝手さ。
 それが少女の潔癖さに触れた。汚い自分。
 その時、扉を叩く音がしてエスメラルダは慌ててベッドの上から飛び起きた。
「どなた?」
「わたくしです。アユリカナ。扉を開けて頂戴」
 エスメラルダは跳ねるように毛足の深い絨毯の上を駆けると扉を開ける瞬間、己の衣服に目をやった。
 着替えていなかった。ドレスのままだが皺がついてしまっている。だが、着替えるまで待てと言える身分のものではない。相手は王太后である。そして未来の母親だ。
 惨めな気持ちで、エスメラルダは扉を開けた。アユリカナは一糸乱れぬ姿である。そして酒を持ってきていた。
「晩酌の相手をして頂けない? レンドルが死んで以来、わたくしは夜一人でお酒を飲んでいたの。やめたけれどもね。中毒になってしまって。でももう中毒からは抜け出したしたまにはね」
「まぁ」
 エスメラルダは思わず口元を片手で押えながらも、開いた片腕でアユリカナを部屋に招きいれた。
「人と飲むお酒はいいものだわ。そう思い出して貴女のところに来たの。迷惑だったかしら?」
「いいえ、とんでもない!!」
 アユリカナはベッドの横にあるテーブルセットの上にボトルを置くと作り付けの戸棚からゴブレットを出した。
「影の者の気配がしたわ。良かった。アシュレは貴女に遺したのね、カスラを」
「カスラをご存知なのですか!?」
 エスメラルダは思わず叫んだ。
 アユリカナは椅子に腰掛け、ゴブレットに酒を注ぎながらエスメラルダに座るようにと指示する。
「わたくしはアシュレの事なら何でも知っていてよ。思い出話でもしましょうか」
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