シャクジの森で〜青龍の涙〜
風の神話
人々が活動を止め、家々が寝静まる夜更け。

星が瞬くヴァンルークスの空に、ゆっくりと薄雲が広がり始める。

常緑樹を纏った山肌は黒々とした不気味な姿に変わりゆき、時折吹く強い風に木枝が音を立てて揺れる。

さざ波のように蠢いていくそれは、まるでそこを這いまわる生き物がいるかのよう。


暗く冷たい空が、ヴァンルークスの国を覆う。


その空の下を、人目を避けるように身を縮めて歩く若者がいた。

徐々に暗闇に染まり行く中を急ぎ足で進んでいく。

その身に纏った長衣が、一陣の強い風にあおられて大きく捲り上がった。



「―――っ!」



声にならない息を出しそれを押さえる細い指が、小刻みに震えている。

自分でも何故震えているのか分からず、訝しげにその指先を見つめながら自問する。


これは、寒さの為なのか?

確かに、気温は低い。

が、それはいつものこと。

真冬ならばいざ知らず、春が訪れようとしている今、この程度では震えることはない。

ならば、懐の大切なものを運ぶ緊張感からか?

いや、落とさないよう厳重に仕舞ってある。

では、これは―――


脚を止め、目深に被ったフードをずらして山を見上げるその瞳が、すぅ・・と大きく開かれる。

その目は、一つの異変を捉えていた。



「違う・・・」



いつもと、違う。

山が、風が、空気が、騒いでいる。


幾年もの長い間風と共にあるこの国。

四季を問わず風は常に一定の方向から吹き、国境の渦に吸い込まれるようにして消えていく。

それが今は―――



「っ、まさか!」



空を仰ぐその瞳に、月を隠す薄い雲が映る。

朧に見える月の影が濃くなったり薄くなったりしている。

月を薄墨色に染めるそれは、いつもと違う方向に流れて行くのがはっきりと見て取れた。




「これは・・・いったいどうして・・・」



いつもは城の背後の山から吹いてくる風。

それが今は城に向かって吹いている。

逆なのだ。

どうしてこんなことが起こるのか。

未だかつてなかったことに言いしれぬ不安と焦燥感を感じ、開いていた唇を引き結んで、若者は止まっていた脚を動かし始めた。
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