身を焦がすような思いをあなたに
業火を求めし者
本物の、天使のように見えた。

朱理は、目の前で微笑む少女の、白く整った顔の周りを、金色の巻き毛が躍っているのを見つめている。

「あなたは?」


朱理が久しぶりに中庭に出て、陽の光に体を晒してぼんやりしていたところに、彼女が現れたのだ。

このまま、体が光に溶けてしまえばいいのになあ、なんて考えていたのだった。


彼女は、朱理の問いかけにも答えず、ただにっこりと微笑んだ。もしかしたら、話ができないのだろうか。朱理は、そう思い、それ以上問いかけるのは、やめにした。


朱理の手を、そっと彼女はとって、静かに歩きだした。

朱理は一瞬、身を強張らせた。この美少女の手を火傷させやしないだろうかと。そして、そんな事態が起こらなかったことに、ひそかに胸をなで下ろした。

彼女が一瞬のためらいもなく自分の手を握ったのは、私の恐ろしい力を知らないからだと、朱理は気がついた。

どこへ、行くのだろう。天国にでも、連れて行ってくれるのかな。お母さんに会えるかもしれない。それに、上手くいけば、美砂と交代できるかもしれない。

そんなことを考えていたから、目の前に馬車が現れても、ああ、この子って、シンデレラだったんだ、と真面目に考える朱理だった。
ただ、繋いだその手を引かれて、そのまま馬車に乗せられそうになったとき、ふと正気に返った。

「ん、ああ、私はいいの。ここにいるから。さようなら、シンデレラ」

見送るつもりで、一歩下がったところで、予想外の強い力で引っ張られて、朱理は馬車の中に転がり込んでしまった。

「いったい!!」

その途端、猛スピードで馬車が走りだすから、さらに体を壁にぶつけてしまった。

「どこに行くの?」

朱理が眉根を寄せて、少女を見つめると、彼女は口を開いた。


「籠の中の鳥を、外に出してあげようと思ってね」


話せるんだ。朱理が驚いたのは、そのことだけではない。むしろ、もっと驚いたことがある。

その声が、ぞくりとするほど低くて、朱理はようやく目の前の人物が「彼女」ではなく、「彼」であることに気がついたのだった。

「あそこは籠じゃないし、私は外に出たくもない」

はっきりした声で、彼にそう告げる朱理。彼は、眩しそうに目を細めて、朱理を見つめている。

「囚われの姫。世が世なら、君が統治するべき世界だよ。僕が、完全に自由な世界を見せてあげる。だから、力を解き放ってごらん」

ああ、彼の目的が、はっきりと見えた。

朱理は、ため息を吐いた。

「力で世界を統治して、何かいいことがあるの?」

あ、なんだか、青英みたいな言い方になった。そう思うと、朱理は微かに微笑んだ。

「皆、姫のものになるよ。人も、物も、場所も、全てだ」

「どれも欲しくない。それに、私は囚われてもないし、姫でもない」

「血筋で言えば、火の国の姫に当たるんだよ。それにしても、君は変な女だね」

火の国で、自分の先祖がどのような役割を果たしてきたのか、朱理は知らないし、興味もなかった。それを今聞いたとしても、やっぱり関心は持てなかった。

「あなたは、そういうものが欲しいの?そのために、私を利用するつもり?」

「いや、ただ水の国を焼き払いたいだけだ」

「どうして?こんなに美しい景色が失われていいはずはない。私の力を行使して、あちこちの国を奪ったとしても、それは、長い歴史の中ではわずかな時間のことよ。そんなものに時間や手間をかけるよりも、あなた個人が幸せに生きられる道を探すべきだと思う」


一生懸命、熱を込めて少年に語りかける朱理に、彼は低い声でこう答えた。

「水の国は、僕の大切な姉を死なせた」

だから、朱理は、こう答えるしかない。

「美砂は、大切にされていた。皆に愛されていた。私も、彼女のことが大好きだった」


しばらくの沈黙の後、もっと低い声が響いた。

「どうして、僕の姉が美砂だと知ってるのかな」

やわらかかった、天使の目が、すっと鋭くなって、朱理は息を呑んだ。

「笑った顔が、同じだから」

笑顔が、美砂に似ている。

そして、その目的がわかった今は、彼が恐れもなく自分の手を取った行動も、朱理の能力を知らないのではなく、自分の持つ力である程度は抑制できるという自信を持っていたからだと、朱理も気がついていた。

「そう?母親が違うのにね」

くすりと笑った様子も、朱理の目には、もう無邪気な天使には見えなかった。

「私は、朱理。あなたは、何て言う名前なの?」

美砂から、千砂のほかに兄弟がいると、話を聞いたことはなかった。朱理は、自分の記憶の中で、美砂の声を探しながら、そう結論付ける。

「黄生(こう)。…まあ、いい。君が、今はその気になれないってことは、わかった」

黄生。実名かどうかはわからないけれど、やはり、その名前を聞いたことはない。

朱理は、この低い声音を耳で捉えているうちに、『兄弟がいるって、素敵』と言ったとき、美砂と千砂が曖昧に微笑んだことを思い出した。ひょっとしたら、あのとき、あの姉妹の胸にはこの黄生の顔が浮かんでいたのかもしれない。

少年の伸ばした指先の爪が、つつつつ、と朱理の頬を降りて行く。


「その気になるまで、ずっと僕と一緒にいてもらおう」


そう言って、強く顎を引かれて、気がついたときには、彼の唇が朱理のものと重なっていて、朱理は慌てて彼を突き飛ばした。

すっかり忘れてしまったと思っていた、青英の唇を、一瞬ではっきりと思い出してしまった。
「いなくなったのがバレた。水が見える。見つかるぞ」

朱理の肩越しに、ちらりと小さな窓の外を見た黄生が、何もなかったかのように馬車の前方に声をかける。すると、さらに馬車が駆けるスピードが増した。

「水?」朱理が首をかしげると、黄生は「義兄が水を操る力を持ってることを忘れてるな」と言った。

そのとき、がくっとスピードが落ちた。ふらついた朱理が振り向いて小さな窓から外を覗くと、外は、まるで雨が降ったみたいに濡れている。

でも、なんだか変だ、と朱理は、違和感だけは持った。

「見つかったな」

黄生は、そう呟いて、朱理にこう告げた。

「義兄の力だ」

と。義兄、義兄、つまり…、青英のことだ。

「空に雲はなく、木々は濡れていない。消えたあんたの痕跡を追うのに、水を使ったんだ」


それを聞いて、理解したなら。とにかくここから、逃げたいと、朱理は、そう強く思った。
今更ながら、逃げる手段を考えてみる。

混乱する気持ちを鎮めながら、朱理は、炎を頭に思い描いた。そのイメージを保ったまま、馬車の後部に手を触れたら、その部分の幌が一瞬で燃え上がった。

怯むかと思われた少年が、らんらんとした瞳で、朱理を見つめながら、再び彼女へと手を伸ばす。


「美しい。気高い。強い。…君に興味が湧いた」


今度は片腕で腰を抱き寄せられて、朱理はもがきながら、その大きな穴から外を見る。なんとかして、あそこから外に出よう、と。

「このスピードの馬車から飛び下りるなんて、自殺行為だよ」

くすりと笑った黄生は、その穴から後方を見た後、一瞬にして、笑みを消した。


「へえ。自らお出ましとは。あの兄上もご執心、ってわけか」


朱理は、わずかな希望が胸に灯り、それが次第に大きくなるのをじわじわと感じていて、黄生の言葉は耳に入って来ない。
うんと後ろだけど、確かに、一頭の馬が、駆けているのが見えたから。真っ白な毛並みのあの馬は、青英の馬。

黄生の声が聞こえなくても、朱理は、青英がこちらに向かっているのだと言うことが、よくわかった。

「あとどれくらいで追いつけるかな。その前に、見せつけてあげようか」

そう言い終わると同時に、黄生は一層強く朱理を抱き寄せ、顎を強く掴んで口づけた。今度は、朱理の気の強さも、力の加減も考慮しているから、朱理がどんなに暴れようとしても、逃れることはかなわない。


どうすれば、いい?

なんとかして、あの、白い馬に乗るには。

朱理は、唇に繰り返される生々しい感触を、自分の感覚から遮断するべく、必死に考えた。


そうして、おもむろに、右足のつま先を、とん、と軽くついた。

その途端、黄生の左足が突然、すぽっと馬車の床に吸い込まれた。

「…よかった、上手くいったみたい。足首くらいまでの予定が、太ももまで落ちちゃったけど」

朱理は、つま先に熱を集中させて、黄生の足元を焼いて穴を開けたのだった。足で力を使ったことがなかった割には、思ったより上手くやれた、そう思うけれど。

「君って人は」

ぎらっと光る目で睨みつけてくる黄生は、朱理のワンピースの裾をぐっと掴んで離さない。その力が強いから、仕方なく、朱理は、するりとワンピースから、自分の身を引き抜いた。

そのまま、躊躇いもなく、幌のなくなった馬車の後部から身を躍らせた。

「朱理!!」

黄生の叫び声を、聞きながら。




「お前な、ちゃんと、距離とか角度とか高さとか、計算して飛んだのか?」

ごうごうと耳元で鳴る風の後に、呆れ果てた声音を、鼓膜が捉えたから、朱理は「助かった」と強く強く思って、必死にそこにしがみついた。

この、慣れた優しい肌触りと、弾力と、におい。

「…そんなはずないか」

青英が、いつもと変わらない様子で、朱理に呆れている。

偶然、タイミング良く、朱理は馬上の青英の腕の中に納まった。もちろん、距離だとか角度だとかそんなものを、とっさに調整したのは青英だ。
朱理の熱い両手が、青英の頬を挟んで、引き寄せたから、青英はどきりとした。

「おい」

まさか、と思ったけれど。そのまさかで、朱理が必死に青英の唇を貪ってくるから、青英もわずかに混乱した。

「朱理。落ち着け」

ちゅう、と、最後に名残惜しそうに、青英の下唇を吸って、朱理がようやく唇を離したから、青英はため息を吐いた。

馬は、いつの間にか、ゆったりしたスピードで、城を目指している。

「したくなったらしていいって言ったじゃない」

恨みがましそうに睨んでくるその顔にも、不覚にも鼓動が早くなった気がして、青英は自分に少し戸惑った。


「確かにそう言ったが、人目を気にした方がいい」


「え!?」

大きな目を見開いて、周りを朱理が見渡すから、とうに青英の馬に追いついていた部下たちは、一斉に気まずそうに目を逸らした。
「人前でキスする女はそういない。それにお前は、下着姿だ」

「わ!!」

さすがに、下着では恥ずかしいと、朱理も思ったらしい。ようやく顔を真っ赤にした。くすりと笑って、青英が、自分の肩からマントを外して、朱理の頭からかけた。

「助かる、けど、なんで、頭からかぶらなきゃいけないの?わたしって顔も恥ずかしい?」

素朴な疑問を口にした朱理の唇に、さっき味わったばかりの感触が戻ってきた。青英も、マントの中に、入ったらしい。

「これなら、見えないだろ」

今度はちゅっと、下唇を吸い返されて、朱理はさっきの混乱状態だった自分を思い出して恥ずかしくなった。

「そう、だけど。…ん、…あ…」

だけど、青英のキスはどんどん熱く深くなって、朱理はまた違う混乱の中に、自分が放り込まれたと感じた。


「見えなくても、声と音は聞こえますから」

流が、ため息混じりに、そう言うまで。

青英は、笑いながら、顔を出したけれど、朱理はそのままマントの下で、青英にくっついたままだ。

恥ずかしくて出られなかったから。でも、それ以上に、遠慮なく、青英に触れて安心したかったから。

広い腕に、後ろから包まれるだけじゃ物足りなくて、マントの中で、もぞもぞと後ろを向いて、子猿が母猿にしがみつくみたいに、両手を回して、両足もかけてぴったりと胸を合わせる。

揺れる馬上で、なんとかそこまで体勢を変えて、ようやく気持ちが落ち着いた朱理。


「おい、くっつきすぎだ、世間知らず」

「世間知らずでいい」

朱理は、青英に拒否されて、引き剥がして馬から落とされない限りはこのままくっついていたい、そう思っているだけだ。だから、青英の意図するところなんて、考えようともせずに、彼にしがみついていた。

「世間知らず過ぎて、扱いづらいな、お前」

「何とでも言えばいい」

青英の胸の中で、朱理は、父親である陽輔のことを強く思い出している。
あの石造りの塔は、私のためでもあったんだ、と初めて気がついて、朱理は父の愛情の深さに言葉も出ない。

ずっと、自分が、誰かに被害を及ぼさないために、閉じ込められているのだと思い込んでいた。

けれど、あの塔で、私は守られていた。私の力を利用しようとする人たちから。


「青英、お父さんに会いたくなった」

「会えばいい」

「うん。呼んでもいい?」

「好きにしろ」

「ありがとう」

マントの下で、もぞもぞと朱理が動くから、何をしているのかと思っていると、再び青英まですっぽりと頭まで中に入れられた。

「前が見えねえんだけど」

青英は、馬の歩くスピードを、さらに落とすしかない。

「ん」

青英の冷静な抗議も気にも留めずに、朱理は顔を傾けて、青英にキスをした。


「またしたくなった」


そう言う彼女の目は、強い意思を表して光っているいつもとは違い、うっとりと何かに酔いしれているみたいで。

青英は、下着姿で密着した朱理の体の感触と、柔らかな唇から伝わってくる刺激に、何度か理性が飛びそうになるのをかろうじて堪えた。

『こんなに髪が短い女抱く気になるか?』

ふいに、初めて朱理に対面した日に吐いた、自分自身の暴言が青英の耳に蘇ってきた。今の状態では、「ならない」と答えられそうもないと思ったのは、青英だけの秘密だ。



あたたかき炎が照らす
吾子の頬
清き水が満たす
吾子の胸
豊かな土が育てる
吾子の体
優しき風が撫でる
吾子の髪


澄んだ歌声が、廊下にかすかに漏れていて、美しい夢を見ているのだろうかと、流は錯覚した。

数分前、赤ん坊の激しい泣き声に気がついて、部屋に駆けつけたまではよかったものの、どうすることもできずに、乳母を呼んで戻ってきたところだった。

すでに大きな泣き声は聞えず、ただ、聞き慣れない子守唄が、なんとも心地よく耳に入ってきて、流と乳母は、しばらく立ちつくしていた。

ふたりは、まるで吸い寄せられるように、赤ん坊に与えられたその広い部屋の、ほんの少し開いたままの扉から、中をそっと覗いた。

赤みを帯びた髪が見えた。彼女は、片方の肩を出して、こちらに背を向けて座っている。

「まあ…」

乳母が、そっと中に入って、事情を理解したときには、思わず微笑んでいた。
朱理は、美砂の行動を思い出して、自分の乳首を赤ん坊に含ませてみたらしいのだ。もちろん、母乳が出るはずもないのだが、赤ん坊は、何かを口にくわえていれば、安心したらしく、今のところは泣いてもいない。

流が後に続いて、部屋の中に入ってきそうだったので、乳母がそっと制止した。

「これでいいの?どうしたら泣き止むのか、わからなくて」

朱理が、助けを求めるような顔で、乳母に尋ねた時だった。


「何をしてる、ここに近寄るな!」


大きな声が部屋中に響いたように感じられた。

実際には、たいした音量ではなかったと思うが、低く響く声で、威嚇するように言われた一言は、その場にいる3人の体を強張らせるには十分の迫力を備えていた。

「王子」

流が、見かねて何かを言おうと呼びかけるが、いつの間にか部屋に入っていた青英は、ただまっすぐに朱理を見下ろしている。
「すぐに出て行く。ただ、可愛いと思っただけ」

朱理が、目をそらさず、訴えかけるようにそう言うけれど、青英の苛立ったような表情は変わらない。


「なら、さっさと部屋に戻れ。勝手にここに来るな」


青英のその言葉で、朱理の顔からは、表情がするりと消えて、瞳が冷たく凍ったように見えた。



流は、どうしてこんな状況に陥ったのか、理解できなかった。

ときどき、主が笑みを見せるようになって。幾分、性格も穏やかになって。そんな変化に内心驚いていた流。

美砂の死によって、青英の口数が少なくなったと案じていた矢先、朱理がいなくなったのだ。

昨日、拉致されかけた朱理を助けるため、何の準備もできていないにもかかわらず、たった一人で城を飛び出した青英。馬車から飛び降りて彼の元に戻り、キスをせがんだ朱理。

そんな二人は、まるで、ずっと前からの恋人同士だったかのように、見えたのに。美砂の死の衝撃も、和らいだように、思えたのに。


「わかった。もう二度と来ない」


朱理は、そうはっきりした声で言うと、そのまま扉から廊下へと姿を消した。一度もうしろを振り返らずに。

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