君の知らない空


公園の傍に停まっている車に歩いて行く。懸命に胸のざわめきを鎮めながら。
運転席に見えていた頭が揺らいで、桂一が降りてくる。


「おはよう」


桂一は、何事もなかったかのような笑顔で迎えてくれる。それは決して作り笑顔ではない、ごく自然な桂一の笑顔。
少し安心して、胸の痛みがやわらいでく。


「おはよう、ありがとう」


いつも通り答えたけど、桂一の顔を直視することができない。そっと目を逸らして、助手席に乗り込んだ。


ゆっくりと車が走り出す。
車内は嫌な沈黙。ラジオか音楽ぐらい流してくれてたらいいのに、それさえなくて息苦しい。


さっきの笑顔は、やっぱり無理してたんだろう。


桂一は、昨日の事には一切触れない。何も言い出さないから、私も何も話さない。もし聞かれたとしても話すつもりはないけど。


結局、私たちは一言も話さないまま職場の傍に着いた。


「ありがとう」

「橙子、待って」


降りようとバッグを抱える私を、桂一が呼び止める。


振り向いたけど顔を見ることはできなくて、桂一の襟元へと視線を向けた。喉が動いて、ごくりと唾を飲み込んだのがわかる。


「今晩、食事に行きたいんだけど空いてる? 休み明けだから忙しかったらいいんだけど」


遠慮がちに尋ねる桂一の声が、僅かに上擦っている。何気なく誘ってくれてるだけの言葉だけど、その裏に隠した気持ちがわかるからすぐに答えられない。
桂一は、昨夜の事を話すつもりだ。


「うん、大丈夫だと思う。無理なら連絡するね」

「ありがとう、じゃあ、いつも通り待ってる」


向き合う覚悟を決めて、顔を上げた。私の目に映ったのは、緩やかな弧を描いた桂一の口元。桂一は、優しい目をして私を見ていた。



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