スミダハイツ~隣人恋愛録~
母親が子供にするように、麻子は榊の背中をさすった。

榊は呼吸を落ち着けるようにまた息を吐く。



「もう誰とも恋愛なんてしないつもりだったのに、気付いた時には麻子のことを好きになってた。どうしようもできないくらい欲しかった。でも、手に入れたら、やっぱりまた怖くなった」

「私は榊くんを捨てたりしない」


それでも榊は、顎先だけで首を振る。



「俺はまたいつ海外に行きたいと思うかわからない。その時になってみないとわからないけど、でも、やっぱり目の前にあるチャンスは捨てられないと思うから」

「私を連れて行こうとは思わないの?」

「そりゃあ、できることならそうしたいさ。でも、麻子の仕事を奪うようなことはできない。麻子がどれだけ仕事を好きか、知ってるから」

「………」

「それに、向こうでは友達もいないし、言葉もわからないだろ? そんな中で、毎日忙しくしてる俺の帰りを待つだけの生活を、麻子に送らせるようなことはしたくないんだ。俺は麻子をそんな風にして閉じ込めたくはない」

「ねぇ、榊くん」


麻子はたしなめるように言った。



「私の幸せは、私自身が決めることよ。どんなことになったって、榊くんが勝手に私の幸不幸を決めていいわけじゃない」

「………」

「昔のことは、私にはわからない。でも、それで未来まで潰すのは間違ってると思う」

「………」

「私、あの人にちゃんと断ったよ。仕事の繋がりもあったから、無碍にはできないと思ってたけど、やっぱり私は榊くんとじゃなきゃ嫌だもの」


榊はまた麻子をきつく抱き締めた。

何度も何度もうなづく。



「ごめんな、今まで。麻子が悩んでるのも知ってた。でも、ずっと言えなかった」

「うん」

「ほんとは俺だってお前との結婚くらい考えてたよ。するなら麻子しかいないって思ってた」

「うん」


一緒に泣いた。


泣いて、泣いて。

そしたら心のひだに凝り固まっていたものが溶けていくのを感じた。
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