君にすべてを捧げよう
「ああ、お帰り、めぐる」


低いバリトンがあたしの名前を呼ぶ。
それだけで心臓が大きく跳ねた。
けれど、それを隠すように殊更不機嫌そうに顔をしかめて言った。


「やっぱり蓮か。いつこっちに来たの?」

「一時間くらい前」

「電気ついてるからびっくりした。連絡してくれたらよかったのに。
また原稿が詰まったの?」


戸を閉めて、靴を脱ぐ。
動揺したせいか足が縺れて、上がり框で転びそうになった。
よろけたあたしに、近寄ってきた蓮が手を差し出してくれる。

それを掴んで、顔を見上げた。
ああ、少しやつれてる。頬、この間よりこけてるじゃない。

眉間にシワを刻んだあたしを、蓮は別の意味で捉えたらしい。
ひょいと肩を竦めて見せた。


「そんなに呆れたような顔で見るなよ。締め切り間際が2つあって、どうしようもなかったんだよ」

「え、2つも?」

「ああ。だから離れにしばらく篭るから、頼むな?」


掴んだ手を、離したくないけど振り払って、大げさにため息をついてやった。


「わかった。世話してあげる」

「すまないな。で、さっそく腹満たしたいんだけど」

「はいはい。ちょっと待ってて」


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