秘書の私、医者の彼

社長のお見舞い


 日曜日の夜にさっそうと現れた、白衣姿の斉藤を思い出しながら見渡す限り真っ白い天井をぼんやり眺める。

 カルティエの腕時計をつけた右手で、白衣のポケットからさっと差し出してくれたのは携帯。
その時の斉藤は、いつもの家で見せるポロシャツの疲れた表情とは全く違っていた。

 腕時計も普段はつけていないので、高価な物を持っていたことに驚き、また、尊敬の念が生まれた。

 もしかしたら、普段も「先生」と呼ぶのが妥当なのかもしれない。

 いつもと違う角度から斉藤を見たせいと、常に暇なせいで、月曜日も一日中斉藤のことが頭から離れなかった。

 もう一度、様子を見に来てくれるかもしれないという期待もして待っていたが、午前中に担当医師が巡回に来て、今はもう午後9時になってしまっているので、おそらく何とも思わずもう帰宅した可能性が高い。

 そう考えると、心寂しい気がしたが、無愛想で冷たい斉藤が携帯を持って来てくれただけでも良かったではないかと思い直し、明日の退院を身体を休めながら待つことにした。

 何も考えることがない。そのせいでまた、斉藤の白衣姿が目に浮かぶ。

「河野さん」

 突然の聞き覚えのある声に、目を開いて間仕切りのカーテンを見て、身体を起こした。

「あっ、はい!」

「入っていいかな。お見舞いに来たんだけど」

「あっ、どうぞ!!」

 と以外に答えようもない。

「大丈夫?」

 こともあろうに、大企業の社長である附和薫は一社員がたった2日入院しただけなのに、わざわざ見舞いに来たのであった。

「はい、最初から平気です」

 河野はベッドにきちんと起き上がって答えた。

「最初からってことはないでしょ。寝てていいよ。起きてるだけで疲れるだろうし」

「いえっ、平気です。もう明日退院できますし、手首も縫いましたけど、今はどうもありません」

 附和は、簡易椅子を確認すると、実にスマートに腰かけた。長い脚のおかげで、安物の椅子が随分高価に見える。

「食器の破片で切ったって橋台さんから聞いたけど、どんな状況だったの? 」

 整った顔で真剣に心配されると、なんだか照れる。

「えっとあの、親子丼を作っていて、ですね。それでどんぶりを取ろうとしたら、それが落ちて割れて。その後自分が脚立から落ちて。という具合です。見たら破片の上にちょうど手首が乗った状態で……」

「自分でここまで来れたの?」

「いえ、あの、同居している方がすぐ止血してくださって。私は全く動けませんでした」

「ああ、お医者さんって言ってたね。ここの人だったんだ」

「はい、外科だそうで、助かりました。本当に。もし1人であのまま止血しなかったら、血まみれになっていたと思います。咄嗟で、救急車を呼ぼうだなんて思いつきませんでしたし、入院も、するほどのことだと思わなくて……。

 不注意で、休んでしまって申し訳ありません」

 ここで河野はようやく思い出して、謝罪しながら頭を下げた。

「いや、そんな言葉を聞きにここへ来たわけじゃないんだよ。ただ心配だったから。本当は昼間抜けて来たかったんだけど、橋台君が融通をきかせてくれなくてね」

 社長は茶色い髪の毛をかきあげながら苦笑する。高級品であろうスーツが実に様になっていて、更に良い匂いまでする。

「なんとか仕事を切り上げて来た。けど、来て良かったよ。顔色もよさそうだし」

 じっと目を見つめられたが、こちらとしては化粧はおろか、顔も洗ったか洗っていないのかも分からない状態なので、できるだけ顔を伏せて喋る。

「すみません、あの、明日はまだ出社できないんですけど、明後日は必ず行きます」

 視線を熱々と感じて、真っ白いシーツしか目に入って来ない。

「退院祝いしなきゃね」

 驚いて目を見開いていると、包帯を巻いた右手に社長の手が触れた。

「みんな、心配してるから」

 ゆっくり手でさすられる。

「すみません、あの、……」

 それしか言葉が出ないし、身体も動かない。

 社長の手は次第に手首から下がり、手の甲に移動し、自らの掌を河野の手の上に重ねた。

「良かった。本当に無事で。静脈を切ったって、ただ事じゃないからね。心配した」

「申し訳ありません」

 息が詰まる。

「…………、明日は何時に退院?」

 話題を変えてくれて、ほっとする。

「あ、朝ごはん食べてすぐです」

「誰か迎えに来てくれるの?」

「いえ……、両親は今海外にいますし、もう十分平気ですので……」

 社長は重ねた手をぎゅっと握ると、

「迎えを寄こすよ、永井君。こんな時に頼りになる子だから」

「いえそんな!! いけません!! あの、もうほんと大丈夫です! 夜は同居してるお医者さんがいますし……」

「…………そう?……」

 そこで、ふっと手を離された。

「じゃ、そろそろ行くよ」

 タイムリミットなのか、気に障ることがあったのか、附和はさっと立ち上がりカーテンに手をかける。心なしか、背中が随分寂しそうに見える気がした。

「すみません、本当にありがとうございました」

河野は精一杯の感謝の気持ちを込めて頭を下げたが、どうもその気持ちは社長 附和薫には届いていないような気がして、誰もいなくなったベッドの上で、先ほどの会話をもう一度頭の中でトレースした。
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